★思い出の紀行(韓国)<6.月城陶窯へ

 我々は、仏国寺を後にすると普門湖へと通ずる街道途中の慶州民俗工芸村へと向かった。
陶磁器や貴金属、木工細工などの韓国の伝統工芸品の工房が集まって村をなしている、いわば産地直売所である。
その一つの月城陶窯に案内された。一時期断絶していた高麗の青磁、李朝の白磁が1970年代よりの日本人の陶器ブームによって、現代の陶工たちにより再現され、良質の陶土を埋蔵する地で甦った。

現代の多くの陶工の中には、日本の唐津や伊万里で陶芸を学んだ者も多いと言う。
もともと唐津、伊万里における陶工たちの先祖は、秀吉の朝鮮出兵の際に日本に連行され、そのまま日本に帰化した人たちである。
秀吉の時代は、盛んに茶会が行われ、茶器としての茶碗一つが城一つに匹敵するほど重宝がられ、各藩は朝鮮より撤退する時に、競って陶工たちを日本へ連れ帰ったと言われる。そして陶芸は、日本の地で花を咲かせた。

労働することをさげすんだと言われる李朝時代の陶工たちの階級は、農民よりもう一つ下の下層の階級に置かれ、官窯に働いた陶工はともかく民窯の陶工たちは、サギチヨンノム(沙器野郎)と呼ばれ生活は厳しいものであったと言われている。

また、李朝の白磁などは、下層の人々には使用が許されず、白磁の代用としての粉青のサバル(鉢)などの雑器を使用していた。
500年続いたと言われる李朝。白色の陶器を極致美まで高めたと言われる偉大なる文化も、その使用を制限したことにより李朝の終焉と共に消え去った。
また、日本における茶器として重宝がられたのは、高級な白磁ではなく幻の茶碗と言われた井戸茶碗や大井戸茶碗、熊川(こもがい)茶碗などの下級階層の人々に使われていた、もっとも粗悪な雑器であった。

幻の茶碗と言われた井戸茶碗がどこで焼かれたか、400年以上にわたり謎と言われて来たが、近年、その出生が朝鮮半島南部の普州の白蓮里古窯址であることが解った。

井戸茶碗の特徴とされる高台につくロウソクが垂れて固まったような鮫肌状の梅花皮は、窯の温度がやや低いため釉薬が完全に熔けなかったことで生じる焼き損じの模様であるが、かえってこの事が日本人にとっては、侘び寂びを感じさせるとして珍重がられた。

そして、この地方の陶工や家族は、朝鮮出兵の撤退の際、薩摩藩によって連れ去られたと言われ、その後白蓮里の井戸谷の沙器部落は消え去ってたと言われている。
また、井戸茶碗の中でも首座にあるビワ色のやや大ぶりの大井戸茶碗(日本には、国宝の喜左衛門がある)の出生も朝鮮半島南部の鎮海近くの寒村から発掘され判明した。
一般に、普州を中心とする朝鮮半島南部一帯は、耐火度の高い風化した花崗岩が多く埋蔵し少量の酸化鉄を含んでいるため、焼き上がりは黄色や黄褐色になると言う。高麗茶碗の一つである熊川茶碗は朝鮮半島南部の熊川地方とされているが、本来の特徴からして熊川地方のものではなく、熊川の港から日本に向けて船積みされたことから付けられた名前であろうと言われている。

土と炎の芸術とまで言われる陶磁器は、「焼き足らず、焼き至らず、火の神のいたずら」と言われるほど失敗も多く、現在では一部を除いては、薪で焼かれた登り窯は姿を消し、焼き損じの少ないガス窯に変わっていると言う。
案内された月城陶窯の作業所の裏手にある登り窯は、観光用に作られた装飾としての窯の様に私には思えた。


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2018年05月28日