ブログ一覧

★ブログ始めました

地元の地域情報や出来事、名所旧跡などを紹介して行きます。個人的には古代史に興味あり。

2016年10月01日

★小林市の忠霊塔公園は桜が満開!!

sakura5

土曜日で天気が良いので、忠霊塔公園に上がってみると桜がほほ満開状態、幾つかのグループが花見の仕度をしていました。

霧島の新燃岳も噴火がなく穏やかな花見日和です。このまま天気が良ければ明日の日曜日は多くの人が訪れるだろうと思います。

 

2018年03月24日

★卑弥呼の墓が発見か?

九州の福岡県田川の内田で前方後円墳が発見!!卑弥呼の墓ではないか?

巨大な前方後円墳。地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

 

近年、九州王朝説を唱えていた福永晋三氏が解説するYoutube動画があります。

興味のある方は、こちらから

 

2018年03月25日

★3月31日開催予定のまきば桜祭りは中止!!

今年、3月31日開催予定のまきば桜祭りは中止!!
2011年3月1日より7年ぶりの新燃岳の噴火によるものと、

牧場に行ってみると、もう桜の満開は過ぎていました。
今日現在、新燃岳の噴火警戒レベルは3と言うことだそうです。

 

 

2018年03月29日

★地元小林市、神社探訪(霧島岑神社1)

新燃岳が活発な活動を続けています。
古代にも霧島山は、噴火を続けていたそうです。
1716年(享保元年)の噴火は、資料にも残るほどだった
みたいです。
新燃岳の噴火による神社の避難の歴史。
その痕跡を分かる範囲で辿ってみた動画を紹介します。
霧島岑神社は、本来高千穂とお鉢峰(現在も活火山です)との間にあつたとか!
興味があったので探訪しました。
小林の霧島岑神社に3年前に参拝した時の
平成27年3月桜の季節に撮った動画をアップします。
13分の動画です。

 

 

 

 

2018年03月30日

★宮崎県小林市、神社探訪(霧島岑神社2)

霧島岑神社は、元々は高千穂峰とお鉢(今年活動が・・)の間にあったとか、
2018年2月10日 - 鹿児島地方気象台が9日、宮崎・鹿児島県境の霧島連山の御鉢(おはち)で火山活動が高まっているとして、噴火警戒レベルを2(火口周辺規制)に引き上げた。
現在は解除。
その場所は瀬戸尾と呼ばれていたと言うことです。
3年前の平成27年3月25日の動画をアップします。

 

2018年04月02日

★宮崎県小林市、今坊権現社を訪ねて(霧島岑神社3)

昨日も新燃岳が噴火した、5000㍍まで噴煙が上がったとのニュース、

3年前の動画をアップします。

 

享保元年(1716)新燃岳の噴火により社殿が焼失したが
ご神体は残ったので細野の山中地区の今坊権現社の近くに仮殿を
作り安置したとの記録があるので、その場所を探して訪ねてみました。

その記録をアップします。興味のある方は、ご覧下さい。




2018年04月05日

★「インターネット完備」とは

最近の賃貸物件ではインターネットが出来る?かが
物件選択の要素になりつつあります。

「インターネット完備」と「インターネット対応」と2種類
の表現があります。同じように見えて両者は
全く違っています。

「インターネット完備」の物件は、入居してLANケーブルを
つなぐだけでインターネットが出来ます。
すなわちインターネットが無料で使える物件です。

これに対して「インターネット対応」物件とは、
インターネットの専用回線を備えた物件と言うことで、
大きな工事は必要ありませんが、インターネットを使う前には
回線を部屋まで引き込み、プロバイダーの契約をする作業が必要です。

当社の管理する賃貸物件の幾つかは、「インターネット完備」の
物件があります、
LANケーブルをつなぐだけでインターネットが出来る訳ですが、
入居者の方の中には、ネットに繋がらないと言われる方がいます。

そこで接続の仕方を簡単に説明した動画がありましたので
紹介します。

 

 

2018年04月09日

★硫黄山で噴火発生

新燃岳が最近静かだとおもったら
えびの高原・硫黄山で19日午後3時39分に噴火が発生した。
少量の噴煙が火口からおよそ200メートルの高さに上がったということです。
特に被害は起こってないですが、霧島連山の活動が気になるところです。

ニュースによると1768年(明和5年)の噴火から250年ぶりとか・・

 

 

2018年04月19日

★ひょっとこ面は、なせ片目なのか!!

こょっとこ夏祭りと言えば、宮崎の日向が有名ですが、
ひょっとこ面の独特の表情だったり、片目だったりするのか?
まず「ひょっとこ」は火男がなまった言葉だそうです。
口を尖らせているのは、火を吹く時の形相だそうです。

 

すなわち製鉄業にたずさわる人に多く見られる職業の人を表現
していると言うことです。
少し調べてみると
「炉を睨みながら仕事をする踏鞴(たたら)の人々は六十になるころにはおおかたどちらかの目の視力を失うのであり、一部には、片目や不愚者が積極的にこの産業に就いたことにふれています。」
「言うまでもなく“ひょっとこ”は火男や火吹男の訛りであり、メッカチさえも“目ッ鍛冶”の訛りなのです。いずれにせよ、これが製鉄や冶金にたずさわる人々を写し替えたものであることは明らかでしょう。このように考えれば、多くの“ひょっとこ”が、なぜ、片目として描かれているかが分かってくるのです。」ひぼろぎ逍遥より引用
今年の日向ひょっとこ夏祭りは、平成30年8月4日に行われるそうです。

2018年04月23日

★宮崎県小林市 秋葉神社を訪ねて

相変わらず霧島の硫黄山の噴火が続いている。
秋葉神社は、昔、新燃岳が噴火した時に、最終的にご神体を
秋葉神社に移したという歴史がある。
ご祭神は火産霊(ホムスビ)神。
ひょっとこ面で紹介した火男に関係する製鉄の神でもある。
具体的には、秋葉神社は古代における金山彦を祀っているとも言われている。

別名「迦具土神、軻遇突智神(かぐつちのかみ)」、と云う。
金山彦と言えば、古代ヤマト建国に関係するイン族であり

有名なのは、「天叢雲の剣 あめのむらくものつるぎ」を作られた神様であるという。
一説では、イザナミの命は妹であると言う説もあります。
以下は、3年前の動画です。

 

 

2018年04月24日

★思い出の紀行(1999年7月)<01 坊津紀行

21世紀を迎える1999年から2000年にかけての紀行文を読み返す機会が
ありました、18年前の歴史紀行ですが逐次アップしたいと思います。

人間は、何故に生まれて、どこへ行くのだろう。
人は、誰かしらどこかでこの命題と取り組まなければならない時が有るようである。
そんな思いが南薩(坊津)への旅を思い立たせた。
今年で450年目を迎えると言う天文十八年(1549年)八月十五日、鹿児島に上陸したイスパニアのキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは、「日本人は、気が優しくて勇敢な民族で、秩序を好みモラルも高い。十三歳で剣を使い、ひとたび斗挙すれば死ぬまでがんばる民族である」と当時のヨーロッパに報告し恐れられたように、当時の日本人の代表は坊津人であった。

 

あの司馬遼太郎氏をして「日本を植民地化から救ったのは、坊津人である。」とまで言わせしめた場所、南薩(坊津)。
また、私の遠い先祖の生きたであろう町。私は、その原郷に出会って見たかった。
以前、もう数年前になるが夢の中で「私は、長い石畳の階段を山頂めざして歩いていた。参道の両脇には数百年も経過したであろう杉の大木が立ち並び、登りつめた所が寺であり山門をくぐり奥の院に通されると、そこには懐かしい人々の笑顔があった。」数年経ってもはっきりとその情景が目に焼き付いている。
何なんだろう!そんな思いもあった。

 

 私は、戦後の作家で敗戦直前に坊津に暗号特技兵として配属されたのち、桜島に転属になる戦争体験を素材にした「桜島」で文壇デビューした梅崎春生、彼の遺作となつた「幻化」の中で主人公五郎が辿った道程(―枕崎―防浦―泊浦―吹上浜―)を辿ってみようと思った。

 

<02 坊津紀行・枕崎漁港

2018年04月25日

★思い出の紀行(1999年7月)<02 坊津紀行・枕崎漁港

七月のはじめ、まだ梅雨の明けきらないうっすらと霞みの掛かる昼下がり、私は枕崎魚港にいた。

薩摩半島の西南端に位置し、三方(東に国見岳、北に蔵多山、西に園見岳)を山々に囲まれ、南が東シナ海に開けている漁業を生業とする都市
近世以来の漁港で、日本でも有数のカツオ漁業基地である。昼下がりの漁港は、漁港独特の潮と魚のむせる様な臭いで服を通して肌までしみ込んで来る様である。

分厚いコンクリートの突堤がコの字型に湾を囲み漁港を形成している。湾には就業を終えた漁船が停泊し、またあちこちで陸上げされた船体が立ち並んでいた。

その周りで座り込んで語り会っている人々。昼下がりの漁港は、日射しの中で時間が止まっている様に思えた。
何もかもが、山育ちの私には目新しく思えた。
小学校まで鹿児島で育ったとは言え数十年余りの歳月は、農耕民族が初めて漁労を生業とする民族を見る様な味わいである。

 

私が、鹿児島で育つた時代、父がよく酒の席で「おまんさぁは、どこいっとなぁ!」
「あたいは農協貯金しぃ!」と独特の枕崎弁で冗談混じりに語っていた事を思い出す。
それ程、カツオの漁獲高が最高の頃だったのであろうか?昭和の三十年代の頃である。
現在でも海岸通りには、南薩地場産業振興センター、かつお公社、お魚センターがあり
特産のカツオを中心にした水産加工所が立ち並んでいる。
しばらくして私は、陸上げされた船体を水洗いしている五〇がらみの男性に声を掛けた。
「坊津は、どっち行けばよかですか?」無理に鹿児島弁で声を掛けた。やけに赤茶けて、潮光りのした顔が振り向いた。カメラ片手に突っ立っている私に、坊津への道を指さして丁寧に教えてくれた。枕崎弁を期待していたが、意外と標準語に近い口調であった。



枕崎港を後にし市街地を抜けると途中に火之神公園への標識が目に付いた。約4㌔と言うことで、寄り道をすることにし海岸線を南下した。

左手に堤防を擁する道路を走った突端は、東シナ海に向かって大パノラマが展開していた。
火之神公園!不思議な名称である。

またここは絶好の大物狙いの磯釣りのポイントと言う事で、あちこちに釣り人が岩場に腰を据えていた。すぐ近くの海上には、古来より漁業繁栄の守護神として信仰されていて、枕崎のシンボルともなっている奇岩、立神岩がそそり立っている。高さは42㍍もあると言うことである。

 

<03 坊津紀行・耳取峠□□□□□01坊津紀行・・>

 

 

思い出の紀行(1999年7月)<01 坊津紀行
<02 坊津紀行・枕崎漁港

2018年04月26日

★思い出の紀行(1999年7月)<03 坊津紀行・耳取峠


枕崎港を望むはるか東方海上には、薩摩富士で有名な開聞岳が、東シナ海に突き出す様に秀麗な姿をぼんやりと見せていた。古来より野間岳と共に南方方面より来る船人たちの目印になっていた山である。

 私は、再び来た道を引き返すと国道226号線を坊津へと車を走らせた。
栗野と言う地区を過ぎる頃には、蒸し暑さに、また私の高鳴る興奮がそうさせるのかジットリと汗ばんで来た。かって、この様な気分の高まる旅があったであろうか?
ぽつりぽつりと人家のある坂道を通り抜けると見晴らしのいい場所に出た。国道の脇に小さな花壇が作られ石で作られたベンチが、こぢんまりと狭い場所を陣取っていた。
コンクリートの擬木の矢印が防・泊方面を指し示している。その横には丸太で作られた表示板に地名の由来が記されていた。

地名の由来もいろいろ説があるらしい。
この地で罪人の耳を切り取ったと言う説、またこの峠に来た人々が眼下に広がる展望のすばらしさに見ほれ立ちつくしたことから見ほれが訛って見取りになったと言う説、

郷土誌によれば、寒風特に厳しい所を、よく「見取かぜ」などと言うことから、枕崎、知覧方面から峠に吹き上げる寒風で耳がちぎれそうに痛いということから、

この地名が出たのではないだろうか、とも記されている。
現在の道路は、明治の終わりに開通した新道で、旧道は北方に五百㍍登った所で、並木の老松がつづいていたと言う。

島津斉彬公が初巡視の時、休憩し展望を賞した所が「お茶屋場」と呼ばれていると言う。

 古来より多くの文化人が坊津を訪れた時、しばし足をとどめこの展望に見取れたのであろう明治の歌人、高崎正風は、

「玉敷の都あたりに移しなば世にふたつなきところならまし」と詠いここを絶賛している。

また梅崎春生の「幻化」の主人公五郎も、立ち止まり懐かしき風景に見入っている。

実際、東方には枕崎港、その遠方に薩摩富士の開聞岳、南には脚下に立神岩か小さく見える。

天気のいい日には、遠く硫黄島、黒島、竹島が望めると言うことであったが、霞みに隠れていた。

私は、しばらくベンチに腰を下ろし、古来より変わることのない山並みや東シナ海を眺めながら先人たちの思いを探っていた。
坊津は、もうすぐそこだ!


<04 坊津紀行・坊の浦へ□□□□□02 枕崎漁港・・>□□□□□01坊津紀行・・>



2018年04月27日

★思い出の紀行(1999年7月)<04 坊津紀行・坊の浦へ

坊津は、古来より那の津(博多)安濃津(伊勢)と共に日本の三津と称され、古代から近世へと海外貿易と仏教文化が渾然一体となって栄えた港町である。
日本の古代国家が、唐の文化を吸収することによって建設された様に、古代においては坊津は遣唐船の入唐道であり、中世においては遣明貿易,琉球貿易の拠点であると共に倭寇の最大拠点でもあった。


また、近世においては徳川幕府の鎖国令下では中国、南蛮との密貿易港であり、享保年間における幕府の密貿易に対する一斉手入れによる「唐物崩れ(とうぶつくずれ)」で、一夜にして寒村になるまで海外貿易の西南端の中心であった町である。


また一方、今を去る千四百年以上の昔に建立されたとされる一乗院の歴史と共に仏教文化の花を咲かせた町、明治の初め廃仏毀釈で廃寺になるまで坊津人の誇りであり精神的より所であった一乗院。ある意味では、日本の歴史の縮図とも言える坊津へ、私は足を踏み入れた。


 見取峠を過ぎ、しばらく山間のくねった道を走ると前方に東シナ海が開けて来た。
道は、いよいよ狭まり所々道路拡張のため工事が行われている。坂道を下る頃になると左手の白いガードレール越しに眼下に入江が見渡せた。


入江を抱く様に所狭しと人家がひしめき合っている。鉛色の海は、ひっそりと静まり帰っていた。
防の浦である。

古代から大陸との文化の交易場であったにぎあいはすでにない。枕崎港に比べ、ひっそりと佇む風景はなおさらながら古き悠久の歴史を細々と生き抜いてきた悲哀を感じさせる。


私は、幾分広くなった道路脇に車を停めると、港を見下ろしながらこぢんまりとしたこの小さな港から波濤を越え大海に、人々を挑ませたものは何だったんだろうと考えていた。



<05 坊津紀行・一乗院へ1□□□□□03 坊津紀行・耳取峠>




2018年04月28日

★世界・ふしぎ発見!で卑弥呼の謎!を放映。

先日(4月28日)テレビで「世界・ふしぎ発見!大英博物館に秘められた卑弥呼の謎」が放映された。
見ていた感想として、2018年になっても日本の古代史が謎であることに違和感を感じた。
昔から不明の4世紀とも言われているが、九州出身の自分としては、ヤマト国は九州にあったと思っています。
古代史に興味のある自分としては、未だに解明されないのは、なにがしかの理由があるに違いないと思っています。
天智天皇から天武天皇の時代、白村江の戦い(663 年)に敗れた頃から歴史が・・・

先日、福岡の田川で卑弥呼の墓ではないかと言うニュースが流れたが、考古学や古代史学会では、未だに既得権益を享受する学者がいると聞く。
どちらが本当かは分からないが、今一しっくり来ないのは確かです。

例えば、白鳳時代とは九州王朝の年号とか、神武は奈良の大和に東征してないとか、
神武と卑弥呼は、腹違い姉と弟とか・・
一般的な常識を覆すほどの所に、本当の歴史があるのでは!!と思うと、
ますます興味をそそられます。


「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは格言ですが、
再度(3月25日)、アップしたブログにリンクします。


こちらから

 

 

2018年04月29日

★宮崎県小林市 霧島岑神社5

霧島岑神社を訪ねての第5弾です。
雛守岳の中腹にあったとの記録を頼って大王地区に行ってみる事にしました。
過去の動画です。
大王とは、天皇と言われる前は、大王と呼ばれていたみたいですか、
福岡の田川にある大王は(おおきんさん)と呼ばれていて
神武天皇の墓ではないか?とも言われています。
田川群は、卑弥呼の墓と言え、神武の墓と言え、古代史に関わりがありそうです。

 

 

2018年04月30日

★思い出の紀行(1999年7月)<05 坊津紀行・一乗院へ1


私は、町並みに入るとまず一乗院に向かった。
坊津の歴史は、すなわち一乗院の歴史そのものであり、一乗院あっての坊津であるとも言われている。
一乗院は、今を去る千四百年以上前、日本にようやく大和政権が成立し大陸より仏教が伝来(583年)した、
のち四十五年後、すなわち敏達天皇十二年(583年)百済国(南鮮)の傑僧日羅の創建とされている。
上の防、中の防、下の防(現在の下浜)の三カ所に坊舎を建て、日羅(にちら)みずから阿弥陀像三体を刻み安置し龍厳寺と称した。

※日羅(にちら、? - 583年12月)は、6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人。 父は火(肥後国)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登(ゆげいべのありしと)。


 その後、敏達天皇、推古天皇の御願所となったが、以来栄枯盛衰を繰り返していた。
平安時代の末期には、崇徳天皇の長承二年(1133年)鳥羽上皇が院宣を下し紀州(和歌山県)根来寺の別院とし真言宗西海の本寺となる。

上皇の御願所であり如意珠山の勅号をうける。従つて、平安末期には西国の名高い巨刹として栄えた。

さらに鎌倉時代を経て南北朝の時代(南朝方の後醍醐天皇の吉野朝廷と北朝方、光明天皇を擁立する足利尊氏の京都朝廷との対立)に入ると日野少尉良成が、しばらく衰えていた寺院を島津氏の協力のもと再興し中興の祖となつた。

良成は、父(罪を得て駕籠、現在の枕崎の硫黄崎、現在の小湊地区に流されていた日野中納言某)の身を案じて薩摩に下って来た人物で、

そのまま坊津にとどまり、やがて発心して坊津で出家し京都の仁和寺で真言宗広沢派の真言秘法の印可を得て成円法師といった人物である。

それ以来、一乗院は京都の仁和寺の末寺として代々真言密教を継ぐことになり、すぐれた僧侶を出した。特に第四世頼俊、第六世頼政、第八世頼忠は、傑出の僧侶であり日秀上人も加わり名僧が続出している。

良成の再興にあたって、当時の藩主、島津氏久(第6代)は寺領として三二六〇町を寄進している。
更に、天文十五年(1545年)後奈良天皇の勅願寺となり「西海金剛寺」の勅額を受ける。金剛峰寺は高野山の寺号であり、寺号を頂くことは特別の栄光であった。

一乗院は、正式には「西海金剛峰如意珠山龍厳寺一乗院」と言う。
以後、歴代の住持たちによって数多くの塔舎などが建てられたが、坊津は台風などの災害も多く、その都度島津家の庇護を受けながらも県下に四十七寺の末寺を持つ大寺であった。

おおまかに資料を拾ってみても、実に悠久の歴史に彩られた寺院である。

 一乗院跡は、坊郵便局を過ぎるとすぐに国道から山手に200㍍上った所にあると言うことであった。車が交差出来ないほど狭い道である。私は、国道脇の空き地に車を停め歩いて上がることにした。

右手の奥の院川に沿って上ってゆくと途中に昔岩間より湧き水が湧いていた硯川があった。坊津に配流された近衛信輔公や島津貴久、義久公が幼少の頃、一乗院に修学の際、硯水に使われたと記されていた。

明治の初めまでは存在していたと言う西海の巨刹!
ああ、私はこの目で一度見てみたかった。
何だったんだろう。明治初めの俗に言う「寺こわし」とは、歴史の流れとは言え寂しく胸が痛い思いがする。今は、そのかけらを拾い集め当時を忍ぶことしか出来ないとは!


その痛々しい傷跡が、正門の左手にあった。胴体が折れ、一体は顔の目鼻立ちも分からない。片手も途中からもぎ取られている仁王像が、本殿のあった方向に向かってクロツグの木の下で黙して語らず、ただ踏ん張っている様であった。

この仁王像は、大永二年(1522年)一乗院の当時の住職(第七世頼全)が山門を建てた時に安置したもので、向かって左が密迹(みつしゃく)で右が那羅延(なちえん)である。密迹は口を閉じて吽を那羅延は口を開いて阿を表している。すなわち、この二文字が万物の初めと終わりを象徴し、一体になることを表わす。
明治二年の廃仏毀釈の時に、門前のやぶに捨てられていたものを後に門前の青年たちが担ぎ上げて現在の場所に据えたものであった。



<06 坊津紀行・一乗院へ2 □□□□□04 坊津紀行・坊の浦へ>





2018年05月01日

★思い出の紀行(1999年7月)<06 坊津紀行・一乗院へ2

そもそも廃仏毀釈とは?

 日本に仏教が伝来してから、この外来の宗教と日本古来の神道とを調和させるために、「仏が本体で、神は仏が仮にその姿あらわしたものである。」と言う説が発展していた。

その後、神道の思想が神仏相並んで信仰界を支配する神仏混淆の世の中が徳川時代の末期までつづく、従って寺には境内に神社を設けて鎮守とし、神社には別当寺を設けて神事も社僧が司るのが常であった。
神社も権現や天王などの仏語をもって神号とするものが多く、また仏像をもつて神体とした神社が多かった。
徳川時代になって幕府が切支丹禁制のため仏教を利用したため神社における僧侶の地位が益々強くなっていたが、漢学が盛んになるにつれ漢学者の中から排仏論が起こり、また、国学がおこるにつれ復古神道がさけばれる様になり排仏の傾向がいよいよ強くなった。

 薩摩藩においては、復古神道を大いに取り入れ、すでに藩主斉彬においては、あらゆる梵鐘を撤廃して武器製造に充てようとしていた。
斉彬の死去により全般的には実現するには至らなかったが、この時、坊津の栄松山興禅寺の釣り鐘は召し上げられ鹿児島で大砲になった。
その後、王政復古がなり明治政府は、明治元年神仏分離令を発令。廃仏毀釈においては維新政府も実行を躊躇したとも言われ、薩摩藩においては廃仏は明治二年に断行され同年中に終わったが、それから明治九年排仏が解禁されるまで藩内には一軒の寺院も残さず一人の僧侶もその姿を見ることはなかった。

 

はじめは、一乗院やその他島津氏に由緒ある寺院は残されるであろうと思われていたが、ついに千四百年以上も法灯をかかげてきた勅願寺たる西海の名刹も排寺に追いやられた。

その処理については、資料によると、
寺院の建物は解体され、僧侶は還俗して故郷に帰され、あらゆる仏像、位牌、仏具などは院内の二つの井戸に投げ込まれ、そのため一杯になったと言う。仁王像は壊して門前にうち捨てられた。仏画や絵画類のいくらかは坊,泊の豪商たちに常備隊費用の担保の名目で分け与え、寺領はすべて門前の住民に耕作地として分け与えた。一乗院の遺材は後に坊泊小学校の建築材として使われた。

一乗院の梵鐘は、南方郷の役所(枕崎)へ移され時鐘とした。すべての梵鐘は鋳つぶして大砲や弾丸にすることになっていたが、時鐘だけは残すことになっていたのでこの処理になったが、のちに明治十年、西南の役の時、薩軍の砲弾とするため私学校に送られた。

この様に、薩摩藩における廃仏毀釈は徹底的に行われ廃寺になった寺院千六百十六寺、還俗した僧侶二千九百六十六名、その内の三分の一は兵士となつた。寺領の没収による財源は軍事費にまわすと言う政治的、経済的理由があったと言われている。

しかし、いずれにせよ国宝級の貴重な文化財や宝物などが、数多く失われたことや、精神的拠り所を失った事は事実である。
いつの時代にも起こりうる事ではあるが、返す返す残念な思いがする。
当時の一乗院の様子は、三国名勝図絵に見るだけである。

<07 坊津紀行・上人墓地へ□□□□□05 坊津紀行・一乗院へ1>

2018年05月02日

★思い出の紀行(1999年7月)<07 坊津紀行・上人墓地へ

私は、一乗院跡の案内掲示板の順路に従った。正門の右手には、頌徳碑が立っている。坊の飯田備前守西村と鳥原宗安の業績をたたえて建てられた碑である。

飯田備前は、日本における最初の海事法(廻船式目三十一条)草案のために鎌倉執権北条義時に召されて、兵庫の辻村新兵衛、土佐の篠原孫右衛門と共に日本海事法の祖となった人であると記されている。
また、鳥原宗安は、坊の浜の湾に向かって小さく突き出た八坂神社の社家であり、豊臣秀吉の朝鮮の役で人質となって日本に連れられて来ていた中国の茅国科(ぼうこっか)を後に送還する大任を命じられ、
慶長五年(1600年)坊から北京に送り届け対明貿易再開に努力した人で、島津家の家臣であると共に三州内屈指の海運業兼海商であり、呂宋などの海外貿易に活躍した人である。


 運動場を右手に迂回し、石積みの階段を上がると校舎の正面に三個の石が列べられている。これは校舎を建てる時に発掘された一乗院の基礎石と言うことであり、約六十㌢四方の大きさである。また、校舎の裏手には、発掘当時の状態が遺構として保存されていた。

小学校の北の裏手の丘には墓地があり、地元では四角墓と呼ばれ上人墓地として県指定の史跡になっている。

成円法師(日野少尉良成)が寺院を再興して以来、廃仏毀釈までの五百十二年にわたる住職たちの墓と言うことであり、現存するのはわずかだが四角形に囲まれた石棺で石板には上人名が刻まれている。

「上人」「僧都」の称号は、当時中央でしか使用を許されていなかつたことからして、いかに一乗院の格式が高かったかを表している。墓石に使った石板は、下の奥の院川から採つたものと伝えられ、この四角墓と言う形式は他に例がなく珍しいと言うことであった。

苔むした石棺は、一乗院跡を静かに見下ろし隆盛を誇った当時を懐かしんでいる様であり、不惜身命!求道しつづけた上人たちの歴史を物語っていた。

上人墓地の上には、海岸線より鳥越部落につながる大きな新道が整備されていた。
この近くに一乗院を創設した日羅の座禅石があると言うことで探してみたが見つからなかった。地元の人に聞いてみたが、分からないと言うことであつた。

史跡が多すぎてと言うより、史跡の中で生まれ育つてきた彼らには、あまり重要なことではないのかもしれないが・・・・・・。

一乗院は、藩政時代は寺格も高く、かなりの寺領を有し門前町を形成していた。一乗院跡地の東方の山手は鳥越と言う地名になっているが、当時、寺門前と呼ばれ武士や百姓や浦浜人、野町人(農村の町人)などと同じように、一種の身分の人たちであった。寺領を耕作したり寺の雑務や商売を行ったりしていた。

一乗院の繁栄の時から由緒ある家筋の人々が寺門前として住みつき現在に至っている。萩原、安東、末野、青野、鮫島、折田、有馬、宮下、長里、松下姓の人達の先祖である。

坊津では、優れた者は医者になるか僧侶になって身を立てる者が多かったが、当時の子弟たちは一乗院に上がり立派な僧侶になるのが望みであり、貴重な書籍や宝物を有する一乗院は、末寺や各郷から集まって来る人々の学問修行の道場でもあった。

私は、上人墓地の丘に立ち、眼下に入江を見下ろしながら、明治の初めまでは朝な夕な唱名の声や梵鐘が静かに西海に鳴り響いていたであろう情景を思い浮かべていた。

意ならずして廃寺になつたとは言え、現在二十一世紀に向かって大きく育とうとする子供たちの教育の場に姿を変えていることが、せめてもの救いであり、時折り吹き上げてくる潮風の心地よさに、しばらく時を過ごし一乗院をあとにした。



<08 坊津紀行・龍厳寺、近衛屋敷へ□□□□□06 坊津紀行・一乗院へ 2 >



2018年05月03日

★思い出の紀行(坊津)<08 龍厳寺、近衛屋敷へ

 国道226号線にもどると近衛屋敷跡へ向かった。
屋敷跡は、国道を少し戻った中坊バス停の近く、坊郵便局に隣接する所に有り、道路より一段高いこぢんまりとした所にあつた。坊津の家並みがそうであるように、総じて敷地は狭く、箱庭程度を作るのが精一杯の大きさである。

地形的に傾斜地を利用するしかないのであろうけれども、石を積み重ねて平坦な土地を
確保し、人家は山手に向かって登るように切り開かれている。
現在は屋敷は残っていない、敷地の大きさから見て、せいぜい十二,三坪の家が建っていたのであろう。近衛藤と呼ばれ、手植えされたと言われる藤と碑が立っているだけである。
さらに屋敷より一段高い敷地は、現在、龍厳寺になっている。

一乗院は「寺こわし」で廃寺となったとは言え、久志地区や秋目地区の人々の中では寺格の高い一乗院の密教よりは一向宗(かくれ念仏)が盛んに行われていた。

「念仏を唱えれば、成仏できる」と言う一向宗は、一夜にして寒村化した「唐物崩れ」で漁業への転換を余儀なくされた人々にとっては、身近で日々の生活に馴染みやすかったのかも知れない。
しかし、薩摩藩においては一向宗は、禁制であったため人々は「かくれ念仏」として根強く信仰されていた。
一乗院の「寺こわし」も、これらの人々には「かくれ念仏」のさらなる禁圧に受け止められたようであるが、廃仏毀釈以来わずか七年後(明治九年)明治政府は、信仰自由令(切支丹解禁に至っては明治六年)を発令。

満を持した様に、坊津では一向宗の布教が盛んになり、色々な説教所を経たのち現在の場所に説教所が作られた。

そして、歴史ある一乗院龍厳寺の復興の意味も含めて説教所を龍厳寺と命名し現在に至っている。これがこの寺の由来である。本殿の左手には、厚信の門徒たちの寄贈により、当時の一乗院の鬼瓦が復元され設置されている。

 

それにしても、龍厳寺より見下ろす近衛屋敷跡は狭い。配流期間二年余りを坊津で過ごした近衛信輔にとって、京都の生活にくらべあまりにもひなびた生活であったろうことは推察できる。
時に信輔、三十歳だったと言うことであるが、流人とは言え元左大臣である。
その生活の有様は「三藐院記(さんみゃくいんき)」に記されていると言うことであるが、気のふさぐ日が多かったみたいである。

敷地跡には、
 「左大臣、近衛信輔公は豊臣秀吉の怒りにふれて文禄三年五月二十一日坊津に配流され、翌年八月二十八日までこの屋敷に住まわれていた。
当時公は三十歳で書画や和歌に長じ優れた京文化をもたらした。公のお手植と伝えられるこの藤は近衛藤と呼ばれている。なお、坊泊戸主会は大正十四年八月二十五日(1925年)関白准三宮近衛公謫居址の記念碑を建立。題字は、裔子近衛文麿の筆蹟である。」と記されている。

 信輔の配流の原因については、一説によると、天下統一を果たした秀吉にとって、次に執着したものは官位の取得だつた。この官位の取得に際してのトラブルだったと言う説ある。流人とは言え名門の出である。

坊津は本来早くから近衛家の荘園であった地であり、また島津家とのつながりも深かったことから、この地が選ばれたのではないかと言われいる。
島津家においても流人としての扱いではなく、色々と信輔をなごませるために接待や歌会を開いている。

滞在中は、世をはばかり岡佐兵衛と名のっていたが、和歌,絵画はもちろんのこと書においては近衛流の元祖であつた。
信輔の坊津に残したものは数多く、坊津の勝景を詠った「坊津八景」や鹿児島の代表的民謡である「はんや節」も信輔の作と言われている。「ハンヨーイ、ハンヨーイ、ハンヨイサーサー」のかけ声も高らかにテンポのよい民謡であり、ハンヨーイは繁栄から来たものと言うことで、活力に満ちた感じがする。

また、坊津は古くから海路により京とのつながりも多かったとは言え、信輔のもたらした京文化も多かったと言える。

 

<09 下浜、坊の浜へ □□□□□07 坊津紀行・上人墓地へ >

2018年05月04日

★思い出の紀行(坊津)<09 下浜、坊の浜へ

 坊郵便局前から海岸線沿いに道が下っている。奥の院川が入江に注ぎ込む所は狭い湾になっている。


このあたりを深浦と言い、昔、造船場があったと言うことである。また深浦に接するように島状に突きだした所を中島と呼び、昔は古松が茂っており、幕末の頃には砲台が据えられていた場所である。今でも湾づたいに砲台跡の石垣が残っていた。また、ここは島津斉彬公が西洋式白糖の製造工場を作った所でもあり白糖方とも呼ばれていた。

 深浦夜雨  舟とめて苔もる露は深浦の音もなぎさの夜の雨かな。
 中島晴嵐  松原やふもとにつづく中島の嵐ははるる峰の白雲。

と、このあたりを近衛信輔は「坊津八景」に詠っている。

 

私は、「ふかうら橋」を渡り、中島の舟つき場に車を乗り入れてみた。小舟がコンクリートで作られたスロープに整然とつながれ、昼下がりの静かな風景を作っていた。
坊津に来て思うことだが、日中は、あまり人を見かけないことだ。
漁業を生業とする人々にとっては、日中は骨休めの時間なのだろうか、入江の水面のごとく中島は静まり返っていた。

 舟つき場の目前には、茜色の八坂神社の社殿が湾にせり出すように姿を現し、裏手の山の深緑に映え、場違いと思えるほどきわだって見えている。
私は、朝方より何も食してない、しかしながら店らしき所がない。まったく観光擦れしてない小さな漁村と言う感じである。

自然の持つサイクルだけが、ここに住む人々の生活規範なのだろう。呉越同舟ではないが、農耕民族のような富を形成することにだけエネルギーを費やし、綱引きしている民族ではないのかも知れない。
板子一枚下は地獄。運命共同体であるが故の厳しさといたわり合いを育んできたのだろう。
閑散とした風景の中にも、芯のぶれない海の男のひややかな熱情を感じる。

 

 中島をあとにし人家の建ち並ぶまっすぐな道を走ると、突き当たった正面のガケ地に、小さな神社があった。船戸神社と書かれている。航海の交通安全の神として猿田彦命が祀られていた。
神社の左手は、下浜の滝下の井戸から湧き上がる水を生活用水とするために、石をくり貫いて作ったと言われる石管があったと言うことであつたが、今は整備されていて残っていない。道の奥まった所に井戸跡が残っているだけであった。

また、山手への道は、狭く急な階段やスロープになっており、道路脇には、小さな古めいた供養塔がいくつか立っていた。

その一つに、公民館の上の山手の道端に「アカンコ供養塔(閼伽壺)」と言うのがあった。年代的にも古いもので塔の種子凡字は虚空蔵菩薩であり大永六年十二月三日(1526年)の年号が刻まれていると言うことで、坊津が海外貿易で栄えた頃、これに祈願して出帆したのではないかと伝えられている。
当時は、坊津は倭寇の大根拠地であつたことからして、倭寇に関係が深いのではないかと言われている。

倭寇が歴史上に登場するのは、十四世紀の中頃からであり南北朝の時代である。
もともとは、二度の元寇(蒙古襲来)、文永の役(1274年)弘安の役(1281年)が倭寇を生んだと言われ、その意味する所から歴史的に前期と後期に分けられている。

前期倭寇の目的は、主に食糧と人民の略奪であり、八幡大菩薩を旗印に集団を組み、バハン船と呼ばれ、人々は名前を聞くだけで震え上がるほどだつたと言われ、主に朝鮮半島や中国沿岸を荒らし回り、根拠地は北九州、対馬、壱岐、松浦、瀬戸内海などであった。

後期倭寇は、十六世紀、応仁の乱以後の時代であり、密貿易が主な目的であつた。東シナ海沿岸、東南アジア方面が主な進路であり、その根拠地は坊津、五島、松浦が中心で薩摩、肥後、長門の人が最も多く、他に大隅、日向、筑前、筑後、豊前、泉州堺の人々があとに従った。

坊津は、南方方面における倭寇の最大根拠地であつた。
しかし、後期倭寇における実態は、倭人は一~二割で大部分は中国人であった。その頭目は、王直であり、中国人でありながら松浦に居を構えて、当時二千人余りを従え倭人と組んで中国沿岸を荒らし回ったと言われている。

その姿は、天をおおう山の如く、その帆は空に浮かぶ雲の如くであったと伝えられている。王直は、天文十二年(1543年)八月、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し鉄砲を伝えた際、通訳をした明人五峰である。

また、王直と行動した徐惟学の甥の徐海と手を組んで杭州一帯を荒らし回った辛五郎は薩摩人であり、薩摩藩における三州沿岸は倭寇の巣窟であつたと言われている。
倭寇は、三,四,五月の春と、九,十月の秋の季節風に乗り行動し、たどり着いた所が略奪の場所であり、当時の明国は倭寇と秀吉の朝鮮征伐の防御のため疲れ果て亡んだと言われている。


<10 密貿易屋敷跡(倉浜荘) □□□□□08 龍厳寺、近衛屋敷へ >


2018年05月05日

★思い出の紀行(坊津)<10 密貿易屋敷跡(倉浜荘)

 坊の公民館を過ぎ、海岸沿いを行くと右手に湾に100㍍程突きだした鶴が崎がある。
「坊津八景」

 鶴崎暮雪 鶴崎や松の梢も白妙に
       ときわの色も雪の夕ぐれ

の場所であり、突端に八坂神社(祇園神社)がある。古くから坊一円の産土神として信仰され、代々中世、近世の海商鳥原家が社掌である。
祭神は、素戔嗚尊、稲田姫、八王子の三柱で御神体は鏡である。社殿は茜色に彩られ、神殿の天幕には、鳥原家の巴紋が飾られていた。右回転の三つ巴紋はせめぎ合って円を成し、波濤を乗り越えて通商した人々の力強さを感じさせる。

本祭の十月十五日のほぜ祭りは、坊津最大の祭りであり「十二冠女(十二歳になる十二人の乙女たちが頭に賽銭箱を乗せて行列する)」などは、京の祇園祭りを思わせるほど優雅であると言われている。


 坊津は、江戸時代には密貿易港として栄えた町である。
江戸時代に入ると幕府は、切支丹禁令と鎖国令を発令し、海外との貿易を長崎一港に限定して幕府の管理下に置いた。
古来より自由な貿易を行ってきた坊津は、必然的に密貿易に移行することになり、薩摩藩においても、切支丹禁令に対しては徹底的に取締まりを行ったものの、中国との貿易については形式的な取締まりに過ぎず、坊津では、抜荷や沖買、琉球や中国へ船を出す抜船など半ば公然と密貿易が行われていた。

「坊津千軒甍のまちも出船千艘の帆にかくる」と歌われたにぎわいは、鎖国令下においても衰えることなく、当時七〇艘もの海外交易用の船があつたと言われている。
一度の航海で蔵が建つと言われる程であり、多くの豪商たちが生まれた。

しかしながら、鎖国令から約八〇年のち、大阪における大抜荷事件をきっかけに幕府の取締まりはいよいよ厳しくなり、薩摩藩においても幕府に追従するように取締まりを強化し、抜荷に対する一大取締まりが行われた。これが坊津を一夜にして寒村に追いやった「亨保の唐物崩れ」であり、坊津の商家は婦女子だけの町に変わり果ててゆく、

「たのめども海人の子だに見えぬかな、いかがはすべき唐の港は」と歌われる程であつた。

この取締まりをいち早く知った海商たちや海に出ていた船は、クモの子を散らすように隠岐、朝鮮、琉球方面に逃亡し、終生帰ることはなかったと言われている。そして没落して行った。残された子孫たちは、細々ながら漁業へと生業を変えて行くことになる。 

倉浜と呼ばれている地区がある。この地区は、当時の豪商たちの倉が建ち並んでいたことから、その様に呼ばれるようになつた地名であるが、その一角に「倉浜莊」はある。

幕末まで海商として栄えた森吉兵衛の屋敷であり、密貿易屋敷跡とも呼ばれている。
隠し部屋があり、取り外しの出来る階段、船底型の天井、二階の襖を開けると一階の部屋や玄関が見下ろせると言う造りは、忍者屋敷のようであると言われており、

梅崎春生の「幻化」の主人公五郎も、この部屋に宿泊しその時の様子を書いている。
「倉浜莊」は、現在も民宿の看板を掲げてはいるが、雨戸は閉じられ営業している様子ではなかった。また、このあたりから昔の豪商たちの倉や屋敷が建ち並び山手に向かって石畳の坂道が続いていたと言われ、今でも石畳はあちこちで蛇行しながら山手へ登っている。


 私は、細い石畳の坂道を登り、そしてまた海岸づたいの道を歩いた。道は湾に沿って歪曲し、道の行き止まった所は坊泊漁港になつていた。そこは半島の山並みが入江に深く突き刺さり、この湾の水深を確保しているようであった。
そして半島の沖合いには網代浜海水浴場があり、坊泊漁港は海水浴場への連絡船の発着所になっていた。
陸路では行けない海水浴場。昔、網代浜は抜荷が頻繁に行われた場所で、奇岩として有名な双剣石がある場所である。
坊泊漁港の西方の高台は、一帯が墓地になっており、昔、栄松山興禅寺があった場所である。近衛信輔は「坊津八景」の中で、この場所を

 松山晩鐘 今日もはや暮にかたむく松山の鐘のひびきにいそぐ里人。

と詠っている。
現在は、墓地の中に数軒の人家があり、寺跡と思われる石積みが残っているだけである。入江を見下ろす木陰で休んでいる老人に聞いてみたが、はっきりとした興禅寺跡は分からなかつた。
ただ、明全和尚の墓が、急な坂道の行き止まった所にあった。
明全和尚は、日本曹洞宗の開祖道元禅師の師であり、師弟共々当時の中国の宋をめざし興禅寺に滞在していが、長い船待ちの間に病死したと言われ、興禅寺に位牌を安置し石塔が建てられたと伝えられている。
従来、日本三津の第一港としての坊津は、入宋、入明の際の出帆地であり、多くの僧や文化人が行き交い、まさに日本における文化の西南端の受け入れ口であった。



<11 峰ケ崎半島へ□□□□□09 坊津紀行・下浜、坊の浜へ>


2018年05月06日

★宮崎県 国道268号線を行く(小林-野尻-高岡線)

5月6日のNHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」は、月照と西郷の「錦江湾入水」の場面でした。その中で「西郷の日向送り」とは処刑を意味していたと言う。
その日向送りとは・・・

 国道268号線は、小林、野尻、紙屋、高岡をつなぐ国道である。
高岡で都城よりの国道10号線と合流し宮崎市にいたる。
古代において、小林が夷守(ひなもり)と呼ばれていた頃、日向の国府である西都市より綾、野後(野尻)、夷守、真幸(えびの市)を経て大隅(鹿児島県)球磨(熊本県)に通づる古代の道があった。

午後より宮崎市に行く用事のついでに史跡を訪ねながら行くことにした。
昼までに市内に着けば良いとの思いで、のんびりと行くことにし、後続の車に道を譲りながら、あちらこちで色づき始めた紅葉を楽しみながら車を走らせた。かつて慣れたる道である。

小林の町はずれの岩瀬川を越えると野尻町である。
しばらく車を走らせると右手に小高い丘が見え始める。何かありそうだとの思いで、小林高校野尻分校跡より山手へと登ってみると戦没者の慰霊碑のある大塚原公園であつた。

公園よりは、付近の景観が一望できる。このあたりを陣原と呼ぶことから、調べてみると1587年(天正15年)豊臣秀吉が九州征伐をおこなった時、羽柴秀長(異母弟)が軍勢20万を引き連れ島津攻めのため陣を構えた所であった。

(秀吉は肥後・熊本より南下する)大塚原公園より東南の平地である場所に、当時20万の将兵がひしめき合う姿は、想像を絶する。このことから付近を陣原と呼ぶようになつたと言われ、さらに近くには後陣原、前陣原の地名までもが残されている。

 野尻の街並みに入ると、まず、都城・庄内の乱の犠牲者である伊集院忠真(たださね)の墓を訪ねてみようと思った。
それは、野尻町の街並みの国道沿いにあると言うことであったが、ほとんど気を付けなければ見過ごしてしまう。

そもそも、庄内の乱は、天下分け目の関ヶ原の戦いの前年である1599年(慶長4年)3月、京都の伏見で島津忠恒(家久)の重臣である伊集院忠棟(幸侃・こうかん)を手討ちにしたことから始まる事件である。

父を殺されたことに憤慨した忠真は、庄内(都城)に立て籠もり島津本家に対し、外城12ケ城(山田城、志和地城、高城、野々美城、安永城、山之口城、勝岡城、梶山城、財部城、梅北城、末吉城、恒吉城)と共に反旗をかかげ激しく抵抗する。

戦いは、各地で本家方(忠恒)が苦戦し長期化の傾向にあった。それを心配した徳川家康がついに調停に乗り出し、翌年、関ヶ原の戦いの年に、伊集院忠真を都城8万石より薩摩半島南部の頴娃1万石に移すことで和議が成立、のちに帖佐に移され2万石を与えられる(もともと伊集院氏は、鹿屋1万石より秀吉に取り入り都城に入っていたのだが)

しかしながら、本家とのしこりは消えず、再び不穏な動きが発覚する。これを察知した忠恒(家久)は、1602年(慶長7年)8月、参勤交代のお供に忠真を命じ、途中、野尻に滞在の折りに鉄砲で暗殺する。忠真は、野尻の地で悲運の最期をとげた。

さらに、残された忠真の祖母、母は、阿多の自宅で自害させられ、弟の小伝次は国分の浜の市で、次弟三郎五郎、末弟千次郎は谷山の中村で刺殺された。そして伊集院家は滅亡した。
忠真の室である於下(おしも)は、島津義弘の末娘であつため、忠真の謀反を理由に引き取られ、のちに女児と共に島津久元に再嫁させられた。
戦国の時代に起こった哀れむべき事件の結末である。伊集院忠真の墓は、現在宮崎銀行近くの国道沿いに残されていた。

墓に添えられた説明書きには、
「伊集院源次郎忠真の墓」
「忠真は、島津氏の家老(鹿野屋城主)伊集院忠棟(幸侃)の嫡男である。
文禄4年(1595年)幸侃は石田三成と親交があり豊臣秀吉の厚遇を受け都城8万石の城主になった。秀吉の死後、島津忠恒(義弘の子)は、三成から幸侃には主家を乗っとり自ら藩主になろうとの野望があることを告げられ立腹し、幸侃を伏見の薩摩屋敷で殺した。(1599年)忠真は都城で、この伏見の変を知り島津氏に叛いて戦いとなった。

(庄内の乱)翌年、戦いが不利となつた忠真は、徳川家康の仲介で和睦し頴娃1万石を経て帖佐2万石の城主となったが、不満の日々を過ごしていた。
慶長7年(1602年)忠恒は家康の命を受け上洛するにあたり叛心の忠真にも同道を命じた。
忠恒は、この野尻に滞在し鹿狩りを行い、日の傾く頃、かねて家臣に謀らせていたとおり忠真主従を謀殺させた。(8月17日)この事件で鉄砲の名手、押川治右衛門と渕脇平馬(穆佐)は忠真と白馬を交換して乗っていた平田新四郎(家老の子)を忠真と思い射した。押川はその責を負い、その日に切腹したという悲話も伝えられている。
忠真の墓に向かって右側の近い方が押川治右衛門、その隣が平田新四郎の供養碑である。事件の翌年、8月17日同族である穆佐の押川則貞が施主となり、後世の冥福を祈って建立したものである。」
昭和56年9月18日野尻町史跡文化財指定。野尻町教育委員会。

と記されている。


<★宮崎県 国道268号線を行く2

2018年05月07日

★宮崎県 国道268号線を行く2

現在、野尻町は、
平成22年(2010年)3月に小林市と野尻町が合併し、現在新小林市になった。
以前は人口1万人弱、世帯数おおよそ3000世帯の野尻の街並みを過ぎ東進すると、やがてブラツクバスの釣りの名所として全国的に有名な野尻湖が、国道を遮る。

野尻湖の対岸は、現在町営の歴史民俗資料館も兼ね備えた一大レジャーセンター「のじりこぴあ」が広がる。

 

国道は、野尻湖を大きくまたぐように戸崎橋が架けられているが、中世においては、手前の小高い丘には山城があった。戸崎川と南谷にかこまりた伊東氏48城の一つである戸崎城は、まさに天然の要害としての趣である。永禄年間には、伊東方の肥田木四郎左衛門尉が城主であつたが、島津氏と伊東氏の日向の関ヶ原とも言われる木崎原の戦いで城主の肥田木氏が戦死すると、その後、漆野豊前守が城主になるも、1577年(天正5年)以降は島津領となつた。

 

 萩の茶屋を過ぎ紙屋に入った。紙屋の関所跡を訪ねてみた。
紙屋にも、中世の山城があつた。伊東方の米良肥後守を城主とする紙屋城である。

伊東氏は、木崎原の戦い後、急速に衰えてゆくが、それは、島津氏の軍勢に敗れたと言うより伊東氏の内部分裂に原因があったと言える。そのことを日向では「伊東崩れ」と言われている。

木崎原の戦いの三年前、1569年(永禄12年)7月、伊東11代当主として人望も厚く今後島津に対抗してゆくには最もふさわしいと言われた義祐の嫡男・義益が24歳という若さで都於郡で急死したのは、伊東氏にとっては悲運と言えば悲運であり、日向の運命を変える一大事件であった。

木崎原の戦い後、島津勢は高原城を攻め、野尻城に至る、1577年(天正5年)野尻城を守る福永丹後守が伊東義祐に対する不満をつのらせ、ついに伊東氏より離反すると戸崎城主・漆野豊前守、紙屋城主・米良肥後守が次々と島津の軍門に下った。
この三城の落城が、伊東氏の没落を一気に突き進めて行くことになったと言われている。

紙屋の関所跡は、国道より左手に300㍍ほど登った紙屋小学校の裏手に残されていた。
薩摩の九関所の一つである。
史跡の説明書きには、

「町指定史跡・紙屋関所跡
指定年月日 昭和56年9月18日。

この境目番所(陸路番所)は薩摩藩の九つの番所の一つであり御番所とも言われ、また土地の人は「ばんどこ」ともよんだ。関所といえば幕府の直轄したものを指すと思われるが、薩摩藩では番所も関所と呼んでいたようである。近くに高岡町の去川(さるかわ)番所、えびの市の球磨口番所がある。

関ヶ原の戦い(1600年)で豊臣方に加わり敗退した島津義弘は、日向の国に上陸後、伊東勢(徳川方)に苦しめられたことから、去川番所の他に四郷(高岡、穆佐、倉岡、綾)所謂、関外四郷を置き、また紙屋番所を設けて、この地方の防備を固めたと言われる。

番所には、上番(瞹「郷土年寄」ヨリ兼務)定番2名、加番3名がいて非常を戒め、他藩旅客の藩内通行の者を改めた。厳重な取締りの例として紙屋番所への犬一匹の通行許可願とか去川番所から紙屋番所への犯人取り押さえの依頼文書等が遺されている。

ここの井戸は当時のものである。紙屋宮前老人クラブは、この史蹟を永遠に伝えるため、明治百年記念事業として顕彰碑を建立し今もこの管理にあたっている。
平成4年3月 野尻教育委員会。」

と記されている。

 

<去川の関跡□□□国道268号線を行く(小林-野尻-高岡線)>

2018年05月08日

★宮崎県 国道268号線を行く・去川の関跡

宮崎県 西郷どん、日向送り-高岡・去川の関跡へ

国道10号線を帰途につく。宮崎より生目を過ぎ大淀川に架かる花見橋を渡ると高岡町である。
途中、バイパスのトンネルを避け旧道に入り大淀川づたいを走ると、前方に大の丸橋、北方には街並みを見下ろすように天ケ城(あまがじょう)が小さく山頂に見え始めた。
この地方は、昔、久津良(くずら)と呼ばれており日向における戦略上重要な位置を占めており、諸豪族等の争奪がくり広げられた所である。
高岡と呼ばれるようになつたのは、1600年、島津義弘が久津良郷に高岡城(天ケ城)を築いてからである。

 関ヶ原で西軍についた義弘は、家康の本陣を突破して海路にて日向細島に逃げ帰り帰鹿した。
そして、徳川方についた伊東氏の防衛のために天ケ城を築城すると共に、薩摩の各地より武士730余名を移住させ比志島紀伊守国貞を地頭に任じ守りをかため、2万石の城下町を形成した。

 

 高岡郷は、国境の大郷であり軍事上の重要基地であったことから知行も高く200、300石の優秀な武士を配置したと言われている。
現在も多くの屋敷跡が残されていると聞くが、街並みを過ぎ天ケ城へと向かう。
天ケ城へは、国道パイパスのガードをくぐり急な坂道を登る。かなり大きな山城であったのであろう坂の途中からは、眼下に高岡の街並みが一望できる。天ケ城は、桜の名所と聞いて知っていたが、初めて来てみてその大きさに驚くばかりである。
城跡には、現在歴史資料館を兼ねた天守閣が建てられ、高岡の観光名所になっている。
資料館は、1~3階までが資料室であり4階は展望所になっていた。
階を登ってゆくと、いきなり裃に身を包み正座した武将が、こちらを見据えて声を掛けてくる。

島津義弘を形作った人形であり、薩摩弁による歴史解説が始まる。おもしろい趣向である。
階上の展望所からは、四方の山並みや高岡の城下町がさらに小さく望めた。
当時の天ケ城は、6郭に分かれ本丸、二の丸、天ケ城など郭名が付いていたと言われている。
しかしながら、1615年の一国一城令により廃城になった。



 天ケ城を後にし去川の関に向かった。
やはり、行ってみようと思った。都城方面に向かうと、山間の谷をくねりながら流れる大淀川を左右に見下ろしながら幾つかの橋を渡る。高岡から大淀川をさかのぼる一帯は、中世時代には幾つもの山城があったと記録されているが、小林方面と都城方面の分岐点より6キロほどさかのぼると去川の関であった。

鹿児島城下より人々が領外に出る街道は、出水筋、大口筋、そして東目筋(ひがしめすじ)と呼ばれた高岡筋であり、加治木、都城、去川を通り高岡に通じていた。現在の国道とは、やや異なるが薩摩街道と呼ばれる道筋は、山づたいを来ても川づたいを来ても去川の関を通らなければならなかった。

現在は、上流にダムが出来て川もゆるやかに流れているが、当時は激流であり竿を刺しても流される程であったと言われている。わずかに上下の岩によって、よどみの生じていた場所が去川の関であった。
薩摩は、二重鎖国の国と言われたごとく、領外との行き来には警戒が厳しく犬一匹も通さないほどの関所であつた。これ程までに厳重であった理由は、外からの危険な情報や特に一向宗を阻止するためばかりでなく、常に徳川幕府に対する警戒心の現れであった。また領民を支配する上からも好都合であり藩ぐるみの密貿易を隠蔽するのに必要であったと言われている。


去川の関は、現在、去川小学校の国道脇に一部史跡として残されていた。

史跡には
「県指定史跡 去川の関跡
指定年月日 昭和8年12月5日
今から約430年前の永禄年間(1558年~1570年)、伊勢国の国守・佐々木義秀の家臣であつた伊勢二見ケ浦の城主・二見岩見守久信は、織田信長に攻められ薩摩の蒲生郡に逃れ移りました。
天正年間の中頃(1582年頃)島津氏の勢いは大変強く、第16代・島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。義久は、国境の防備を固めるため関所をここ去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。以来、二見家は11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1870年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。
去川関所は、高岡郷、穆佐(むかさ)郷、綾郷、倉岡郷、そして支藩佐土原へ通ずる薩摩街道の大事な地点にあり、大変厳しい取調べが行なわれた所と言われています。
当時は、現在の去川小学校の門前に渡船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改められて薩摩路の旅に着きました。今では、その遺跡として門柱の礎石が一つ残っているだけです。
平成7年3月30日 高岡町教育委員会」
と記されている。


薩摩では、この去川の関の外側に置かれた郷を関外(かんがい)四ケ郷と呼んでおり、敵が攻め入る場合は、まず高岡郷士と戦いさらにこの去川の関を渡る必要があった。
すなわち高岡郷士は、領外の番人としての役目を果たしていたと言える。また、罪人が「日向送り」「長送り(ながおくり)」と言われることを恐れたのは、去川の関を越え領外に出ることは、高岡郷士により撲殺されることを意味し、すなわち死刑を言い渡されることであった。
幕末には、西郷隆盛が京都の勤王僧・月照をかくまつたことにより「日向送り」とされたことで月照と共に錦江湾に入水自殺をはかったほど恐れられていたと言える。
川幅は昔とあまり変わらなかったはずであるが、渡し場に降りてみると、今では何事もなかった様に小舟が一艘、岸につながれていた。


御定番であった二見家の歴代(初代~11代)の墓は、小学校前に県指定史跡として氏名とともに保存されている。

また、小学校裏手には、二見家の屋敷跡が観音開きの武家門と共に残っており、現在も子孫の方であろうか住まわれている。
さらに道の奥まった所には、国指定天然記念物・去川の大いちょうの木が天に向かってそびえたつていた。、このいちょうは、島津氏初代忠久(1179年~1227年)が薩摩街道であったこの地に植えられたものと伝えられており推定樹齢は約800年と言われている。

去川の大いちょうは、800年もの去川の歴史を見続けてきたのであろうか、その存在感と共に大地にどっしりと根を下ろしていた。
私は、その大きさに驚きつつ、再び夕暮れせまる大淀川づたいを帰路についた。

平成12年11月8日 記。


268号線を行く2>


2018年05月09日

★思い出の紀行(坊津)<11 峰ケ崎半島へ


峰ケ崎半島へ

 坊泊漁港より国道226号線に引き返し、峰ケ崎へ海岸沿いを北上する。
途中、旧道との間にはさまれた三角地に赤い帽子と首掛けをした地蔵が立っている。
 「沈溺諸霊塔」

「文化五年(1808年)十一月十日、坊津に入港しようとした唐船が、大風のため遭難し乗組員九十人中六十一名が溺死した。この霊を弔うため天保十年(1839年)六月六日当地の有志がこれを建てた」と記されている。

唐船は、坊泊漁港の西方の寺ケ崎付近で遭難したと言われ、「唐船がいかり」と呼ばれている岩礁は、この時に沈んだ唐船のいかりに永い年月の間にカキや貝殻などが付着したものと伝えられている。

 

 坊浦湾と泊浦湾を南北に隔て、瓢箪状に西方に大きくせり出した半島が峰ケ崎である。その付け根に町役場の坊泊支所があり、歴史民俗資料館がある。
あぜくら造りを模した資料館は、昭和四十四年五月に開館され一乗院や古代からの海外交易の悠久の歴史における文化遺産を保存し後世に永く伝えるために文化財保護条例に基づき建設された。

歴史民俗資料館の前が、和楽園とも呼ばれている津口番所のあった場所である。坊・泊両港を一望に見渡せる位置にあり、現在は住民の憩いの場所になっている。

三方を海に囲まれた薩摩藩にとって海辺の警備は最も重要視され、海の関所として船舶の出入り、旅人の検査などを取り締まるために津口番所を置き、また異国船の取り締まりのために中央藩庁には、異国方や唐船方が置かれ、地方には異国船番所、異国船遠見番所、火立番所が置かれた。
さらに唐船の漂着頻繁な地点には、たいてい唐通事(通訳)が置かれていた。これらは鎖国の幕藩体制下では、他の藩にない薩摩藩独特のものであった。
1704年頃の領内には、異国船番所・津口番所が二十四カ所、遠見番所が十一カ所、火立番所が十二カ所が置かれていたと言う。

坊津の津口番所は、異国船番所も兼ねており唐通事も置かれていた。坊津の外に唐通事は、阿久根、川内、羽島、串木野、片浦、加世田、秋目、山川、小根占、佐多さらに種子島、屋久島、鬼界島、奄美諸島に置かれていたと言われ、
いかに唐船の漂着が多かったかがうかがえる。またこの事は漂着に名を借りた密貿易も盛んに行われたことを意味し、薩摩藩は唐通事の育成には最も力を入れ、海外密貿易には重要なポストであった。
津口番所には、城下より武士二人(坊津では三人という)と従僕一人が詰めて密貿易や出入船の積荷を検査したり、漁船は出入りごとに届けさせたりしていたが、その都度、獲物などを差し出させていたと言う。また、船主たちは「お風呂入り」といって交替で役人を歓待したと言われている。

津口番所や異国船番所などの設置は、表面的には幕府の鎖国政策に対応するかに見えて、その実態は、少なからず海に依存する薩摩藩の幕藩体制下に行われた密貿易(抜荷)の巧妙な隠れ蓑であったと言われている。

 

 津口番所のあった場所から遠く北西方向に網代浜の双剣石が見える。
梅崎春生の「幻化」の中で主人公五郎と部下の福兵長が、酒を飲み双剣石まで泳ぐことになる岩である。この時、奄美出身の福は溺死する。

江戸時代の版画家安藤広重も描いたと言う双剣石は、雌雄があり大小の剣を立てた姿に似ていることから、この名が付けられたと言われ、高さ二十七㍍と二十一㍍の奇岩である。
梅崎春生は、終戦直前の頃、海軍暗号特技兵として坊津に駐屯。その後二十年ぶりに坊津を訪れ、遺作となった「幻化」を書いた。

その時に、「坊津二十年を憶えば、年々歳々花相似て我老いたる如し」の墨跡を残した。
「幻化」は、当時の生活不安や戦争の悲惨な体験から常に幻想におびやかされ、さまよいつづける人間の弱さ悲しさを描いたもので、昭和四十六年に坊津ロケが行われ、NHKでドラマ化された。梅崎春生は、昭和四十年七月に五〇歳と言う若さで生涯を閉じるが、翌四十一年に氏の文学的営為を賛えて、この峰ケ崎に記念碑が建てられ、

「人生 幻化に似たり 梅崎春生」の文字が刻まれている。

辞書によれば「幻化」とは、「万物、皆幻の如く変化すること」と説明され、「徒然草」の一説「人の心不定なり、物みな幻化なり、何事か、しばらくも住する」が例挙されている。
五〇歳で、この世を去った梅崎春生。自己の生存の根源を問い続けながらも、その虚無感のなかで、なおもって自分に向かって
「しっかり歩け!」「元気出して歩け!」と叫んでいる。
「人生は無常である。その無常を胎中に飲み込みながら、ひたすら生を全うする。」
そんな事を考えながら、双剣石を眺めていると、葬式花ダチュラの花を思い出す。

梅崎春生が冥府の花と形容した朝顔を数倍も大きくした花。南方の花で原名をエンゼルストランペットと言うらしいが、大きさ故に重々しくうなだれる様に咲く。無常と言う荒野の中でも、ひたすら純粋無垢の白さを輝かせる。
思わず立ち止まり見入っていると「幻化」の世界に誘い込まれて行くようであった。

 

 

<12泊浦へ□□□□□10 密貿易屋敷跡(倉浜荘)>

2018年05月10日

★思い出の紀行(坊津)<12泊浦へ


 峰ケ崎を過ぎ、荒所浦を左手に見下ろしながら坂道を下ると、小さく突き出た御崎(宮崎)がある。その御崎越しに泊漁港は開けていた。

白塗りの漁船に混じって、対岸には色鮮やかな遣唐使船を模したグラスボートが停泊していた。
宮崎には九玉神社があり、航海安全の神である猿田彦大神が祀られていたが、鳥居の脇に文豪谷崎潤一郎の「台所太平記」の碑が建てられている。
この小説は、泊出身のお手伝いさんをモデルにして書かれたもので、谷崎家では、昭和十一年頃から泊出身のお手伝いさんが十数名仕えていたと言う。素朴で明朗で料理がうまく屈託のない南国の女性、その一人が結婚するに際して詠んだ歌が、

「さつま潟とまりの浜の乙女子は嫁ぎてもゆくか伊豆の猛夫に 潤一郎」と碑に刻まれている。
 夕暮れせまる泊港。私は、宮崎の先端より湾の中央までせり出した堤防を夕照に誘われる様に歩いた。波打ち際の巨大なテトラポットの上に腰を据え、東シナ海に沈む夕日を眺めていた。

港に出入りする小型船のエンジンの音、漁に出かける船、帰り来る船がきらめく海面にゆるやかな軌跡を残し、やがて小さく消えて行く。
山手からの浜風が、汗でベと付き火照った体を、ゆつくりと冷ますしてゆく。足下でブツブツと音をたてる波音を聞きながら、帰る時間さえどうでも良くなっていた。


やがて、沖合いは黄金色のキラメキに染まり西方浄土をかもし出している様であった。
そのまぶしさは、私の無明の淵を照らし至福へと導いてくれる様に思えた。
思えば遠くへ来たものだ。そんな思いを抱きながらも、いつまでもキラメク海を眺めながら漂っていたかった。

 坊津は、古代においては遣唐船の入唐道であり、唐文化摂取のため唐の都、長安をめざし多くの使節や留学僧が遣唐船に乗り込んだ。

遣唐船は、西暦630年を第一回として894年(寛平六年)菅原道真の意見で廃止になるまで、飛鳥時代から奈良、平安時代の約二六〇年間、任命十八回入唐十五回を数えた。航路は壱岐―対馬―朝鮮半島西岸―山東半島の北路と五島列島から東シナ海を直接横断する南路。そして南西諸島を飛び石とし東シナ海の最も狭くなっている所を横断する南島路の三っの航路があった。

坊津は、南島路にあたり遣唐船の中期に利用された。
初期の遣唐船は、一団が二隻で形成され、一隻の乗組員は約百二十人ほどであった。
船の大きさは長さ四十五㍍巾三㍍と推定されている。中期頃からは、四隻となり約四百人前後が四隻に分乗し四船と呼ばれる様になった。

当時は、航海術も造船も幼稚であり、気象や季節風に対する知識もなく、まったくの盲目航海であり、しばしば遭難し遣唐船がそろって帰国することはまれであった。
遣唐使に任ぜられることは、東シナ海(死の海)に向かって四船(死の船)に乗り込むことであり死を覚悟しての航海であった。

遣唐使が入唐したのは十五回、船の総数四十余隻、その中で十二隻が遭難。つまり出航した三分の一が遭難したことになる。そして何百何千という人々が南海に沈んだのである。

第二回653年に派遣された吉士長丹の一行は、初めて南路をとって遭難し、第四回659年の坂合部石布らは南海に漂流して海賊に殺された。また第十回733年の遣唐使は、翌年帰国の途についたが船団の四隻のうち第四船は行方不明となり、第三船は遠く南の崑崙島(ベトナムの南端)に漂着し、百十五人中生存者はわずか四名であったと言われている。

 泊浦は、坊浦に比べてゆったりとした感じがする。山並みが緩やか精であろうか、
私は、国道より左手の遣唐使船の発着所に向かった。
白と朱色に塗り分けられたこぢんまりとしたグラスボートは、遣唐船気分を味わわせてくれると言うことであった。
一日、四回運行、所要時間一時間。私が発着所に着いた時には、昼の最初の運航時間であった。

しかし、あたりには乗船客が居る様子ではない。大人千四百円の料金を支払い乗船したが、結局、私ひとりであった。
船長と乗務員一人、私ひとりのために船を出させるのも気の毒な気がしたが・・・
船長が、沖は少し荒れているが大丈夫か? と聞く。
船酔いは経験がないと言うより、このクラスの小さな船に乗るのは初めてである。「大丈夫か?」と聞かれても、船酔いがどう言う状態か分からない。結局「大丈夫だと思います」と答えたが、かえって大丈夫かと聞かれると心配になる。

私は、前夜の深酒で酔いは酔いでも二日酔い気味である。まあ所要時間一時間と言うことで、すぐに過ぎると思った。
私の遠い先祖が、波濤を乗り越え南海に漕ぎ出したとすれば、少なくとも私のDNAの中に、その痕跡があるだろうと思った。「そんな男が船酔いするはずがない」とあらためて自分に言い聞かせるのも滑稽な気がした。
乗船名簿に名前と住所を記入する。今日の乗船客は熊本からの家族連れが一組みたいであった。

船内は、中央に二カ所二㍍四方ののぞき口があり、ガラス越しに海底がのぞける様になっていた。船首の方の壁には、遣唐船の写真が飾られ、小さく説明文が添えられていた。映画「天平の甍」の写真であろう。

グラスボートは、東シナ海へ波風を切って突き進んだ。甲板に出ると波しぶきが小さな飛沫となつて顔にかかる。なぜか心地よい! 胸を張る思いで船首に立った。
夢と使命に燃え、先人たちは唐の都、長安めざして荒波を乗り越えて行ったのであろう。私も、その気分を味わうには十分なほど、船は小さく沖はうねりがあった。

海面は、あちこちで大きな弧を描きながら浮き沈みしている。見るだけで船酔いしそうだ!二本足で立っている足もとが垂直に上下する。板子一枚、まさに下は地獄だ!

 グラスボートは、坊浦沖合の網代浜へと向かった。
網代浜はこぢんまりとした海水浴場になっていた。
船上より間近に見える双剣石は、男性的リアス式海岸ならではの景観である。近衛信輔は「坊津八景」の中で、このあたりを、

 網代夕照 磯ぎわのくらきあじろの海面も夕日のあとに照らす篝火。

と詠っている。さらに湾を入り込んだ寺ケ崎の西南の小湾を亀カ浦といい、

 亀浦帰帆 亀浦や釣りせんさきに白波のうき立つとみて帰る舟人。

と詠っている。また坊岬灯台あたりで、

 御崎秋月 あら磯の岩間くぐりし秋の月影をみさきの波にひたして。
 田代落雁 行末は南の海のをち方や田代に下る雁のひとつら。

と詠っている。
網代浜沖でグラスボートは停泊した。エンジンが停まると、ガラス張りの船底からは、テーブルサンゴなどの色々なサンゴ礁やウニなどが海底に彩りを与えていた。
尋ねてみると水深は7~8㍍と言うことであり、密貿易時代は網代浜沖は抜荷が頻繁に行われていた事もうなずける。

 グラスボートは、再び引き返し泊の沖合の丸木浜へ向かった。丸木浜は丸木半島の付根を南北に大きくくり貫いた様な入江であり、昔、漂流船や貿易船が風雨をさけてイカリを下ろしていた所でもある。

また、島津九代忠国が、嘉吉附庸事件(嘉吉元年、1441年将軍足利義教の弟、大覚寺義昭が謀反を起こした折り島津忠国に追討が命じられ、忠国がこれを日向で討ち取った)の功により琉球を賜わり(これには異論がある)琉球を視察しようとして泊に滞在し、丸木浦に多数の軍船をこしらえ出航の日を待っていた所である。忠国は、その後病死するため計画は中止になったと言われている。

丸木浜は、国道より近い事もあり、多くの海水浴客が見渡せた。グラスボートは、沖合にしばらく停泊した。海底のサンゴ礁とともに海上には、ヒサゴ瀬や草島と呼ばれる岩礁が、東シナ海に向かって美しい景観を作っていた。一時間はすぐに過ぎていった。

 泊漁港を後にし堤防沿いを歩くと、道路より一段低い所に湧き水のコンコンと湧き出ている井戸があった。案内板には、まっどくんかわ(弘法の井戸)と記されている。昔は地元の人々の生活用水であり、この井戸は弘法大師(空海上人774年~835年)が西国行脚の途中、この地まできて、のどのかわきをいやすため浜に杖をさされたら水が湧き出てきた、と伝えられていた。

町並みをしばらく行くと川をはさんで道は大きく二股に分かれている、川の上流づたいの山手の道が清原、茅野方面(島津九代忠国が丸木浜から琉球に渡ろうとして坊津に来て行館を建てた所)への道であり。橋を渡り海岸沿いの道が、丸木浜、久志への道である。
この分かれ道あたりが泊の町の中心であり、「坊津十五夜歌」に歌われた泊の豪商小次郎屋敷があったと言われている所である。

この町を流れる川は泊川と呼ばれていると共に鍛冶屋川とも呼ばれている。
坊津が貿易港として栄えていた頃、造船も盛んに行われ造船技術も高かったことから、遠くはフィリピンからも造船の注文があったと言われ、坊の深浦と共に浜から取れる砂鉄を製鉄し、ここで造船に必要な金具等を作ったり、入港した船の修理を行っていたと言うところで、この名前で呼ばれるようになったと言うことである。

川を少しさかのぼった所には、当時使われていた湧き水(井川)があった。
川沿いの道をさらにさかのぼると海印寺があった場所があり、現在は浄土真宗の摂光寺になっているが、伊集院広済寺の末寺で臨済宗のお寺であり、島津九代忠国が一乗院で亡くなった時、その位牌を安置して大檀那としていた寺である。また川を渡った左手には岩に刻まれた磨崖文字があったが、文字はほとんど読みとれないほど風化していた。

 私は、再び海岸沿いの国道に引き返し丸木浜へと向かった。
泊より丸木浜・久志へ通づる道は、車岳が東シナ海に間近に迫り蛇行した崖づたいの道である。
大正六年、枕崎―笠沙線の二万四千二百㍍の県道(国道226号線)が完成するまでは馬道の旧道であり、工事に際しての泊―久志間は、機械力もなくすべて人力だけの難工事であったと言われている。
断崖絶壁なるが故に、景観も美しい。しばらく曲がりくねった道を登りつめると、泊浦と丸木浦を隔てるように小さく突きだした今代鼻の展望台に出た。
コンクリートで作られた高台の展望台からは、東南の方向に泊漁港、北西方向には丸木浜が見下ろせた。また、東シナ海に向かっての展望には、丸木半島の先端のヒサゴ瀬や草島が小さく岩礁を表し、うち寄せる波が白く砕けていた。
私の、坊津第三番目の目標である久志湾。それは丸木半島を越えた北方に位置しているはずである。

 

<13久志湾へ□□□□□11 峰ケ崎半島へ>

2018年05月11日

★思い出の紀行(坊津)<13久志湾へ1

 風車村のある丸木半島を左手に見ながら車をしばらく走らせると、前方に大きな湾が開けてきた。
三国名勝図絵に記された久志湾は、
「西より東に入りたる海湾にて、内外の二港を分つ。内港の口は、北岸より宮崎鼻突き出し、南岸よりは小島二つ接連し、港口をふさぐ。港裏の北浜を今村浜といい、南岸を博多浦という。

又、内港の口よりさらに沖合いに大岩鼻左右より突き出し、やや相向い海口をふさぐ北岸にあるを立目崎といい、南岸にあるを網代という。立目崎の内を馬込浦と号す・・・
これを外港とする。二層の湾内、共に舟舶の安泊に便にして、実に天然の良港なり。往古は、海外の船来たりて交易をなす・・・・」と説明されている。

内湾は、坊浦湾と泊浦湾を二つあわせた位の大きさであり、内港の海岸沿いの道路も直線的で北へ向かって長い。
内港の南岸にある博多浦は、古来より中国、琉球などの貿易船が盛んに出入りし、非常ににぎやかであった港である。

博多とは、物が多く集まるところの意味であり、古く中国では交易商業の中心地を博多といい、昔は筑前の博多と薩摩坊津の博多は共に商業貿易の中心であった。

丸木半島を過ぎ国道を海岸に向かって下ると、人家を迂回し包み込むように道が走り久志漁港に至る。古い家並みは、海湾より小さな川づたいに山手へとのび小さな集落を形成している。この集落の入り口が博多浦であり、唐人町のあった所である。

私は、久志漁港の手前の道を博多浦へと入り込んだ。
博多浦は、古代から海外貿易の拠点であったが故に、多くの唐人が移り住んだ所である。道は石畳が敷かれ、石畳は琉球人の石工によって作られたもので唐針(日時計)が刻まれていたと言う。おしくも昭和二十六年のルース台風で破壊されてしまったが、当時の石畳があちこちに残されていた。

唐人たちは、徳川幕府の鎖国令によって海外貿易が長崎一港に限定されると、その居所を失い、新たなる土地を求めて移住して行った。その時、墓も一緒に掘り起こされたと言うことであり、その跡の祠には地元の人々によって墓が建てたと伝えられている。

唐人墓は、山手の小高い丘にあり、博多浦を静かに見下ろせる場所に立っていたが、唐人墓のあたりは荒れ果て、今は屋敷があったであろう石垣が残っているだけである。
幕府の鎖国令を、もろに受けた坊津。その一端を博多浦に見る思いがする。

 また、唐人町の入り口あたりは交易場の跡であり、運ばれた荷は一旦ここで降ろされ市が開かれ鹿児島や関西方面へ取引されていったと言われている。

さらに交易場の近くには、江篭潭と言われている入江があり、ここは船の避難場所であると共に造船所の跡とも言われ、海の干潮を利用しての船底などの修理、修繕をした場所でもあると言われている。

江篭潭の南の丘の日本人墓地には、交易場家の墓石があり、現在でも交易場を苗字とする家が残っていると言う。


<14久志湾へ2□□□□□12泊浦へ>


2018年05月12日

★思い出の紀行(坊津)<14久志湾へ2

 久志地区や秋目地区は、一乗院の影響を多く受けている坊・泊とは異なり、一向宗(隠れ念仏)が盛んに行われた地区でもある。
薩摩藩の公認する宗教は、一乗院の真言宗をはじめ天台宗、禅宗などの国家仏教、貴族仏教であり、学問的戒律主義的仏教であった。

島津中興の祖(日新公)以来、他藩とは異なり、一向宗(他力本願を説く親鸞の浄土真宗)を禁じた。日新公(島津忠良)は、一向宗を「悪魔の所為」であると言い。
孫の義弘(島津十七代)は「一向宗信者は、とかく同類徒党を結び、君父の命に従わず、忠孝の道にそむき人倫を破り秩序を乱す」とし、取り締まりは壮絶をきわめ、外城郷士の重要な任務の一つは「一向宗」の取り締まりでもあった。役所には「宗門改」があり領民には、何宗に所属しているか届けさせ「宗門手札」が渡されていた。

禁を犯せば連帯責任であり、罪の軽重に従って斬罪、切腹、遠島、知行没収、家名断絶、所払、科銀等に処された。
これに対し一向宗は、日々念仏を唱える自力作善の貴族よりも、自分の生活のためにやむを得ず殺生などの悪行を行わざる得ない下級武士や百姓こそが救済されるべきであると説き、封建領主への反抗勢力として育つて行った。

身分制度の厳しかった藩政時代、いつも社会の下積みにいて搾取され、現世に失望し不満を抱いていた人々にとつて、阿弥陀の慈悲にすがり、ただ念仏を唱えれば良いとする一向宗は、禁制の中でも深く浸透し「隠れ念仏」として広まって行った。
大方の人は、表向きは真言宗、天台宗、禅宗に所属しながらも「隠れ念仏」すなわち浄土真宗の門徒であったと言える。

明治初めの廃仏毀釈は、廃寺の歴史ではあったが、一向宗門徒にとっては封建制の崩壊をくぐり明治九年、信仰自由令による新たなる寺院建設への道でもあった。 

 久志における一向宗は、博多浦における淳心講、今村地区の二十八日講が伝えられており、広島地方の一向宗を世に言う「安芸門徒」と言うごとく、博多浦においても「真言堅固の博多浦」と呼ばれるほど根強く信仰されていた。
博多浦は、海外貿易の中心であったため内外人との交流も多く、一向宗は京都の本山と直接海上交通により結ばれていたと言われている。

博多浦は、藩御用船商として多くの家が苗字帯刀を許されており、堺の港のように一種の治外法権地域を形成しており、地元の役人では取り締まれないため、恰好の「隠れ念仏」の地であったと言われている。

唐人町の奥まった所にある淳厚寺は、廃仏毀釈で共に取り壊された真言宗一乗院の末寺の宝亀山阿弥陀寺安養院の跡地に建てられた浄土真宗の寺であり、小さな川に架けられた石橋や石畳は、堅固なる信仰びとの風格さえ感じさせる程、威厳に満ちたたたずまいである。又、今村の地区には広泉寺が建てられていた。


 坊津は、寺院、貿易もさることながら、同時に他の外郷と異なり医者の多くが住した町でもある。特に久志・博多浦においては、貿易によって薬種、香料などの入手が可能だつたことや、南薩地方そのものが薬草の自生する地域でもあつたことから、古くから代々漢方医の家系が多く博多浦近くには住んでいた。


<15久志湾へ3□□□□□13久志湾へ1>


2018年05月13日

★思い出の紀行(坊津)<15久志湾へ3

 再び私は、博多浦より国道を内湾に沿って北上した。
途中、左手に砲台跡と言われてる場所には、幕末の頃大砲が据えられ外夷に備えられていたと言う。このあたりは平尾と言われる地区で、山手に向かっての人家は、昔、五十石どん(久木元家、小原家)と言われた家柄の人々の住まいがあったと言うことであった。

現在の久志の町は、平尾地区を少し北進した大久志の地区であり、海岸線の新道より山手側に平行に走る旧道には、地頭仮屋があり久志の中心であった。

内湾の北岸の今村浜は、久志川が湾にそそぐ河口である。河口に沿って宮崎鼻に通ずる途中に広泉寺はある。
広泉寺は、今村地区における浄土真宗の寺であり、その前身は、京都正光寺の直門徒として一向宗の二十八日講が行われていた所であり、この寺の本尊の阿弥陀如来の木像は、もと頴娃の開聞神社の別当寺(一乗院の末寺)瑞応院に安置されていたもので、明治二年の廃仏毀釈の直前に持ち出され、今村に運ばれ信者たちが石棺の中に埋めひそかに保存してきたもので、神仏自由令の後に掘り起こされ広泉寺に安置されたものである。

又、広泉寺付近の今村地区は、豪商の重屋敷のあった場所でもある。
享保の「唐物崩れ」により多くの豪商たちは没落して行ったが、なおも幕末まで続いた豪商の存在もあった。
享保の一斉取り締まりは、自由に密貿易を行ってきた豪商たちの新たなる編成換えであり、薩摩藩の琉球貿易専売体制へ移行するための大支配であった。薩摩藩の専売体制への移行は、一部の大船持ちとの必然的結託を生じさせ、一部の豪商たちは、藩の御用船を勤めるかたわら時には密貿易商として幕末まで繁栄するのである。

その代表的豪商たちは、指宿の浜崎太平次、高山波見の重、串良柏原の田辺、志布志の中山、加世田小松原の鮫島、阿久根の河南・丹宗、東郷の田代、そして坊では森吉兵衛であり、久志博多浦では重家、中村家、入来三家、関、林、田中、森の七家は苗字帯刀を許され、商人たちは、回船問屋を組織していた。

特に、重次兵衛は「久志じゃ重の字や、泊じゃ小次郎、坊の津ヤマキチ(森家の屋号)で名をあげた」と歌に歌われるほどであり、ある年には全国の長者番付に印されるほどであった。
次兵衛が晩年、科をのがれて大島名瀬に渡る時、五十数個の千両箱の半分を久志に残して行ったとも伝えられている。
又、中村家は、大阪中之島に回船問屋を置き、明治期まで大倉庫を持っていたと言われ、今の住友倉庫の前身である。
さらに久志今村の重家や中村家には、西南の役の前年の頃には西郷南州翁が数ヶ月も滞在しており、南州翁の書の類が数多くあったと言われ、明治十年の役の戦費の多くを負担したと伝えられている。
しかしながら、両家とも(坊津の豪商たちが多くそうである様に)明治十年の敗戦と共に没落への道を辿って行ったと言われている。

私は、広泉寺の裏手の丘に登り、久志の内湾を眺めながら、自然が作り出した天然の良港、そしてそこで織りなされた人々の歴史、そしてそれを眺めている私と言う存在も又同じ歴史の構成員の一瞬の瞬きであると想った。

私は、久志に時代と共に生きた人々の夢の跡を見た思いがした。この今村や塩屋地区は、太平洋戦争でB29の爆撃を受け、ほとんど九割が消失したと言われている。



<16久志湾から秋目へ□□□□□14久志湾へ2>


2018年05月14日

★思い出の紀行(坊津)<16久志湾から秋目へ

 私の最終目標は、秋目であった。
久志より約10㌔の山間の道である。
道路前方に今岳が見える頃、今岳の西方の裾野に久志湾の外湾を形成する立目崎が細長く海上にのび湾を作っている。馬込浦(末柏浦)である。今岳峠から見下ろす景色は絶景である。
今岳は三角錐状のとんがつた山であり、山頂には十二個の石を神体とする十二所権現が祀られ、古来より霊験あり航海の神として付近の海上を往来する人々は必ず参拝したと言われ、末柏と言う集落には鳥居口を姓とする部落があると言う。

又、この今岳峠あたりは、県下で初めてポンカンの栽培が行われた所でもある。
今岳峠を過ぎ、左手海上に沖秋目島(ビロー島)を見ながら平崎海岸を通り抜けると、いよいよ秋目である。

 秋目浦は、正面岬と呼ばれる岩山が北方より海上に突き出しておりその付け根に向かって南よりえぐり込む様に湾を形成するこぢんまりとした入江である。

久志湾に比べ、その小ささに驚くほどである。この小さき秋目浦に、奈良時代に漂着した鑑真。その鑑真の日本上陸の資料を展示した記念館が、国道沿いの丘に建っていた。
 日本の古代国家は、唐の制度を模範とし大化の改新が行われ、大宝律令を発布。都を唐の長安にならって平城京(奈良)に移し仏教による治国を理想とし、まさに都は、

「青丹よし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今さかりなり」

と詠われたほど大唐文化の咲き誇つた時代である。
しかしながら、外観整い魂入らずではないが、仏法の修行の基本である戒律を経ず、ただ苦しい賦役から免れるために仏門に入り、仏のことも知らず経典もろくに読めない怪しげな僧達が増えていた。朝廷も、たびたび取締規制を出すが手の着けられない状態に、正しい授戒の実行と戒律知識の普及の必要性を求めていた。
ついに聖武天皇は、栄叡と普照の二人の青年僧を唐に遣わし、日本の授戒の師となるべき律の高僧を迎えて来る様、命じた。
二人の若き僧は、重大なる日本の使命をおび、天平五年(733年)の遣唐使船に乗り込んで入唐し、各地を訪ね歩くこと九年、ようやく伝戒の師たる鑑真に出会うことになる。
鑑真は、中国揚州の生まれで諸宗の奥義を極めた当代随一の高僧であり、優れた徳を慕って多くの俊才が輩下に集まっており、講座を開くことで後進の指導に当たっていた。
鑑真を訪ねた二人の若き僧は、入唐の使命を切々とうったえた。
「仏法は、つとに日本に伝わりましたが、その法があっても、伝法の人がいない実状であります。むかし聖徳太子は、二百年後には仏教は日本に興隆すると予言しておられましたが、今こそ、その時になっています。願わくば、大和上が東遊して伝戒の師となり、真の聖教を指導する師表となってください」と頼みこんだ。
静かに聞き入っていた鑑真は、

「私は、こんな事を聞いている。わが天台宗の祖師である南岳恵思禅師は、亡くなられた後に、日本の王子(聖徳太子)に生まれ変わって伝法を興して衆生を救われたと。実に日本こそは仏法興隆の国だと思う。誰かこの中に日本に伝法に行くものはいないか」
と問われた。
しかし、誰一人答える者はいない。
やつとして祥彦と言う僧が進み出て言った。

「日本は、はなはだ遠く生命は存し難い。はてしない大海を渡るに百人に一人も至るなしと聞きます。人身は得難く中国には生れ難い。その上私どもの修行はまだ成就しておりません。だから誰も黙して答えられぬのであります。」
すると鑑真は即座に毅然として言った。

「これは法のためであるぞ。経に示されたように身命を惜しむべきではない。誰も行かぬなら私が行く。」
すると、びっくりした弟子たちも、誰も彼もが即座に同行を願い出た。

 鑑真一行は、早速、出発の準備に取りかかるが、高僧なるが故に引き留めようとする人々の密告などに会い挫折や大難を繰り返した。
ある時には、日本とは反対の方向の海南島に漂着し、言語に絶する苦難に遭い、ついに六十三歳の時には、失明するに至った。そして愛する弟子たちも死亡したり脱落していつた。
そして、六度目にして日本の土を踏むのは、第一回の渡日計画から実に十二年が経過していた。
天平勝宝五年(753年)十月十九日夜、ひそかに遣唐使船の中にかくまわれて揚州を出発。やがて六十七歳を迎えようという天平勝宝五年の年の暮、屋久島で十日間も風待ちして出航した船は、四方もわからぬほどの風波の中を進み十九日の昼時に山のような波間から山頂を見る。それから一日かかつた翌十二月二十日の昼に、やっと秋目浦に辿り着いたのである。
この鑑真の日本上陸を記念し、鑑真和上が亡くなって千二百年目にあたる昭和三十八年に、秋目浦の東シナ海を見下ろす高台に、

「鑑真大和上滄海遥来之地」の記念碑が建てられた。
そして添碑には、
「天平勝宝五年十二月二十日の午の刻、唐の鑑真大和上この地に上陸し、初めて日本の土を踏んだ。この国の文化は是より格段にその輝きを増したのである。」
と記されている。
さらに現在は、高台に鑑真記念館が建てられており、鑑真の偉大な功績とその生涯が説明展示されている。

 秋目上陸後、鑑真の足どりは、太宰府を経由し翌年の二月四日に奈良の都へと入った。そして日本律宗の祖として東大寺に初めて戒壇を設け、聖武上皇らの帰依を受け唐招提寺を建て、戒律の根本道場とした。大僧都となり大和上の号を受け、日本に多くの功績を残した。
鑑真は、天平宝字七年(763年)五月六日、結跏趺坐したままの姿で遷化した。行年七十六歳であったと言う。
現在、唐招提寺には、弟子の忍基が作ったとされる「鑑真和上座像」が安置され国宝とされている。
秋目では、鑑真の渡来を記念する行事として「鑑真大和上まつり」が、お盆の頃行われているが、今年は、第十八回目を迎え八月二十二日、日曜日に行われると言うことであった。

 当日の早朝五時、私は秋目に向かった。
小さい港での「まつり」とあれば、多くの人々でごった返すだろうと思ったからである。秋目には八時には着いたが、まつり開始の十時までには時間があった。
港には、日の丸と大漁旗を掲げた漁船が、朝日にきらめく入江に停舶し、まつり開始を待っている様であった。
今より千二百年以上も昔に起こった鑑真和上の上陸を、この小さな港の人々は、どのように受け止めたのであろうか。また、日本上陸に十二年もの歳月を費やし盲となった鑑真和上には、秋目の風景は心眼にどのように写ったであろうか。多くの弟子を失い、多くの同士が倒れた。終始一貫して到着したものは鑑真と弟子の思託それに普照の三人だけだったと言う。共に大命を託され入唐した栄叡は、五度目の出航計画で潮に流され海南島に漂着した時、海南島から本土へ渡り広州に向かう途中に、志なかばで没した。
今で言えば、ほんの数時間の距離にある中国、時間の概念が違い過ぎる。
この数時間の距離に、一命をかけた人々、真理を求めるにひたすらに生きた人々。それに比べ我々は、便利になり余った分の時間に、どれ程の成長をとげて来たのだろうか?どれ程の進化をして来たのだろうか?
東シナ海を眺めながら思いを巡らしていると、海上に小さく遣唐船が見え始めた。準備のための入港である。
泊浦から来たのであろう、私の乗船したグラスボートである。
浜には、上陸セレモニーのための準備がなされ、人々が集まって来ていた。
しばらくすると、再び遣唐船が漁港を離れ沖合まで出てゆく、いよいよ上陸セレモニーの始まりである。
花火が打ち上がった。

鑑真一行を乗せた遣唐船が、秋目浦に入港してくる。多くの人々が浜部から眺める中、沖に停舶する遣唐船にデンマ船が近づく、やがて鑑真はじめ同行の僧が三隻のデンマ船に乗り移り、秋目浜へと漕ぎ出す。
拍手と共に鑑真和上、日本への第一歩の再現である。
次々と、従った者達の上陸である。一行は十名であった。
この中に、鑑真の弟子の思託そして普照もいたのであろう。そして志なかばで没した若き僧栄叡、さらに十二年にわたる歳月で命を落とした多くの人々の魂も引き連れての秋目上陸であったことだろう。
そして、鑑真和上の心に去来したものは、みえぬ目にも涙する万感の思いであったことだろうと思った。
上陸を果たした一行は、海岸沿いを鑑真記念館へと行列を組み突き進んだ。

私は、行列の前方を歩き、一行を写真に撮り続けた。
・・・・・・・・・・

 私の旅も、終わりに近づいていた。
七月より、およそ二ヶ月あまり、坊津に四回ほど足を運んだ。
坊、泊、久志、そして秋目へと、夏の暑い中を歩いた。そして多くの事を知った。多くの景観に触れた。
私の遠い先祖たちの住んだ坊津は、千年以上も日本の歴史の舞台におどり出て、そしてその役目を、静かに終えた町であった。
久志博多浦に多く住し、ある時期には僧侶であり、漢方医であり、船鍛冶大工であり、唐通事であった。

 東シナ海に沈む夕照は、限りなく美しく、役目を終えた小さな町に対する自然からの贈り物のように感じられた。
また、私にとって坊津への旅は、自然や人々に対する優しさへの気付きの旅でもあった。
また、いつの日か訪れる時があるだろう。
いゃ!いつの日か、また来よう。と思いつつ夏の坊津に別れを告げた。


  参考文献

「坊津町郷土誌」  (上・下巻)    坊津町
「坊 津」      森 高木     春苑堂出版
「鹿児島県の歴史」  原口 泉      山川出版



<17秋目から笠沙町へ□□□□□15久志湾へ3>


2018年05月15日

★思い出の紀行(笠沙)<17秋目から笠沙町へ

 秋目より笠沙町へ通づる国道226号線は、海岸まで山並みが押しせまり、ほとんど平地の少ない所である。
左手眼下には、沖秋目島(ビロー島)が近くの海上に大きく岩肌を見せ始めている。
笠沙町入りは、十月も終わりに近づき、風も幾分冷たさを含んでいた。
笠沙町は、東シナ海に向かって北西に細長く突き出した半島がほとんどを占め、その先端は、野間岬のある野間半島である。
野間池へ通ずる南西のリアス式海岸線は、急傾斜な地域が多く容易に海岸に近ずけない。
また、神話に由来する瓊瓊杵尊の上陸地のある海岸でもある。

 秋目より、しばらく車を走らせ展望の良い場所(後藤鼻)に出るとビロー島が目前にせまり、海岸までのスロープを利用した公園が作られていた。
現在は、立入禁止のロープが張られているが、この付近一帯の海岸は、笠沙漁協の漁業権が存在する海岸らしく、赤色で縁取られた警告の看板には、魚貝類、イセエビ、タコ、ウニ、アワビ、トコブシ等の採捕は、密漁となる旨が印されてあった。
あちこちに点在する小島が作り成す岩礁が育てているのであろうか、まさに海の産物の宝庫という感じがしてくる。
海岸は、この付近から北西に弧を描きながら黒瀬海岸へと続いている。
黒瀬海岸への道を、国道より左手に約500㍍ほど下って行くと、そこにはこぢんまりとした黒瀬漁港が開けていた。

この黒瀬海岸は、先頃(平成十一年十月三日)国内過去最高の覚せい剤密輸事件が発覚した場所であり、この事件は中国・台湾ルートの密輸組織によるもので、616キロを押収、末端価格壱千億円を超えると言われ、昨年、日本国内での一年間の押収量をはるかに上回る量であると報道されていた。
坊津のあちこちの海岸に立てられていた「密出入国、密貿易禁止」の看板を見たが、あながち過去の歴史のことだけではなく、現在でも起こりうることである事を実感する。

船舶や航海技術の発達により、現在は漂着船こそないだろうが、やはり黒潮洗うこの地域は、古来より海外に近い窓口なのであろう。
また、このあたりの海岸は、神渡海岸とも呼ばれており、港の奥まった所には、

「神代聖蹟瓊瓊杵尊御上陸之地」の碑が建てられている。

これは、日本書紀の日向神話の

「皇孫瓊瓊杵尊は、日向の高千穂峯に天降り、吾田の長屋の笠狭碕に到着し・・・」のくだりに由来すると言う事であった。

 黒瀬海岸を後にし、再び国道に戻るとすぐに黒瀬部落への道が右手に分かれている。
黒瀬部落は、昔より杜氏の里と言われている地区であり、多くの杜氏を生んだ。明治の終わりに焼酎造りに魅せられた三人の男たちが黒瀬で杜氏となり、その歴史が始まる。

日本でも焼酎造りの杜氏のいる村は、黒瀬と阿多ぐらいであると言われている。
国道を少し走った右手に、現在、焼酎造りの伝承展示館が、イベント広場や自然公園と共に作られている。大きな帆船を型どった遊び場の横には、

「冬知らぬ薩摩野菊の咲くところ 神代の蹟の磯におりたつ」の川田順の歌碑。

また、伝承展示館には、焼酎造りの工場が再現され見学できるようになっており、特にミニチュアと立体映像による仕込みから焼酎のできるまでのホロビジョンは、なかなか面白い。囲炉裏の前でダレヤメ(晩酌)する人形の語る独特の薩摩弁による解説は、何故か懐かしく感じられた。

道路をはさんだ反対側には、東シナ海に向かって傾斜を利用した展望ミュージアムが作られ、眼下には黒瀬漁港が望める。
「古来より中国と日本は、文化経済など深い関わりを持ち、ことに福建省とは江戸時代、琉球との貿易に密接な窓口として琉球館が置かれていたという歴史を持っております」と言う挨拶文に始まる「99日中現代美術交流展」が開かれていた。

中国側の展示は、福建省出身の芸術家で構成され、今や経済発展のめざましい東南の沿岸地区にある福建省は、芸術的にも伝統と現代、東洋と西洋の文化のぶっかり合いを背景として、アジア芸術における現代主義的絵画が盛んである、と紹介され、時代に対するメッセージを含んだ絵画は、ゆかりの地(笠沙町)で、そのエネルギーを増幅している様であつた。
このミュージアムは、平成十年四月にオープンしたと言うことであったが、テラスのテーブルに座り東シナ海を眺めながら芸術鑑賞に浸るのも、またイイ!

 ミュージアムを過ぎると海岸づたいの道が遠々と続く。
途中、国道右手に宮ノ山遺跡が山手に向かって登っている。ここは、皇孫の宮跡と言うことらしく由緒書きには、
「皇孫瓊瓊杵尊が、宮居を定むべき地を探し求めて吾田の長屋の笠沙の御前に来て塩土の翁から領有地の献上を受け、ここは韓国に向かい朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、といたく気に入られ、ここに宮居を定められた神代笠沙宮の古跡と伝えられている。
古事記、日本書紀によると瓊瓊杵尊は、ある時に笠沙の御前で麗しき美人に出会い、その名を尋ねると大山祗神の娘で神吾田津姫、またの名前を木花開耶姫といい、この姫を妃に迎える。やがて二人の間には、三人の皇子が誕生する。
火闌降命(隼人の始祖で海幸彦となる)、彦火々出見尊(天皇家の祖先で山幸彦となる)、火明命の三人であり、ここ宮ノ山は、皇孫発生の大ロマンの可能性を秘めた実に神聖で由緒ある地とされている」とする旨が記されている。
神話に語られている物語が事実かどうかは、さておいて、

 笠沙町における神代に関する石碑。

黒瀬海岸の「神代聖蹟瓊瓊杵尊御上陸之地」
宮ノ山の「神代聖蹟瓊瓊杵尊御駐蹕之地」
野間半島夕日ケ丘の「神代聖蹟笠狭之碕」
野間岳山頂の「神代聖蹟竹島」の四つの石碑は、

日華事変(日中戦争)が長期化し、日本が戦時体制(国家総動員体制)へと移行する中、昭和十五年十一月十日、紀元二千六百年記念式典(神武天皇が橿原の地に都を開いてから二千六百年目にあたるとされる年)が行われ、国民の戦意高揚「欲しがりません勝っまでは!」のスローガンのもと、皇国の「敬神崇祖」の念による記念事業として、翌年昭和十六年に建てられたものである。

宮ノ山遺跡を訪れる人も少ないのであろうか、狭いコンクリートの階段が作られてはいるが、あちこちで雑木が生い茂り、しばらく登ると遺跡と思われるドルメンと呼ばれる岩や石積みが点在していた、しかしながら頂上まで登るのは困難な様であった。



<18野間池へ□□□□□16久志湾から秋目へ>


2018年05月16日

★思い出の紀行(笠沙)<18野間池へ

野間池へ

 薩摩半島は、地形的に見ると牛の頭の格好をしており、山川町池田湖を口の部分とすれば、笠沙町は牛の耳の部分である。
その耳の先端のくびれた所が野間池である。また野間半島は、先端の野間岬を従え鳥のくちばし状に東シナ海をくわえ込み、弓なりの海岸線を作っている。
道路前方に、その景観を眺めながら車を走らせると国道の脇に、こぢんまりとした展望台がある。切り立った岩壁に砕ける白波は、はげしく岩を削り落とし男性的海岸を作っており、この展望台より見る野間半島は、ことのほか美しい。
この展望台で詠んだのであろうか、

 「神っ代の笠狭の碕にわが足を ひとたびとどめ心和ぎなむ」

の斉藤茂吉の歌碑が立っていた。

この付近は、海面より百㍍もあろうか、海岸へ降り立つ道はない。遠々と山の中腹を縫う様に道は続いている。姥と言う地区まで来ると数個の人家があったが、変わった名前である。おそらく娘媽信仰とのゆかりがあるのであろうか・・・・
山間の道が下りに入る頃、前方に野間池が見え始めた。
笠沙半島と野間半島がくっついたことから、海水を取り込むように池状をなし、北の一部が東シナ海に向かって狭い口を開いている。


私は、野間池と言う名称から池があるのだろうと思っていたが、池状を成した海湾であることを初めて知った。湾の奥まった中央は野間池漁港であり、静まり返った港には、多くの漁船が停舶し、まさに天然の良港を成していた。

 前方に見える湾口の〈みなと公園〉には、町営の温泉と博物館がオープンに向かって建築中であり、野間池漁港より見る景観は、まさに海上に浮かぶ近代建築の神殿を思わせる雰囲気である。

野間池漁港のトンボロをなす部分の反対側は、ウシロ浜漁港となっており、目前には大きな立神岩が立ちはだかり視界をさえぎっていた。
数人の釣り人が磯釣りを楽しんでいた、ここは定置網観光が体験できる場所にもなっていると言うことであった。

笠沙半島は、アジアモンスーン気候地帯にあるため、夏は南東を中心に南寄りの風が、冬は北西を中心に北寄りの季節風の吹く地帯であると言うことである。
特に、突風による海難事故は多く、最も注意を要するのは一月から二月頃の暖気突風であり、小春日和のベタ凪の状態から急変し西又は北西の突風は、瞬間風速四十㍍にも及ぶとされ、この突風を「西あがい」と呼び「冬の高凪,大名の居眠り」と言って恐れられていると言う。

また、薩摩半島は「台風銀座」とも言われる程、台風の通り道にあたっており、その被害も多く報告されている。特に昭和二十六年のルース台風の被害は甚大であり、大潮の満潮時と重なり潮位は十㍍を越える津波となり、ウシロ浜の立神岩を飲み込み市街地を一瞬の内に襲い十七名の人名を奪ったと記録に残されている。
ウシロ浜に立ち立神岩を見上げると、その津波の大きさに驚くばかりで、自然の持つ脅威を感じさせる。

 私は、海難事故に関する石碑が建っていると言う夕日が丘公園へ向かった。ウシロ浜の北西の丘、狭い坂道を上る。登り切ってすぐに左に折れ道の行き止まった所が夕日が丘公園である。公園と言うよりは狭い丘である。
名前からして夕日が綺麗なのであろう。野間池港の反対側に位置するこの丘からは、眼下にウシロ浜が見え南東の方角には黒瀬海岸のビロー島がうつすらと姿を現して大海原が展開していた。

丘の中央には、「神代聖蹟笠狭之碕」の石碑。
川田順の「いにしへも今もあらざり阿多の海の黒潮の上に釣するみれば」の歌碑。
そしてルース台風の海難事故にまつわる「噫乎消防の華」の碑が立っている。

資料によると、
「遭難船あり」の報告を受けた野間池消防団は、ただちに風雨の強まる中、野間池港より南西沖約8㌔の遭難船救助に向かう。救助船は「漁盛丸」「孟盛丸」二隻。現場に到着し直ちに救助活動を始めるが作業は困難をきわめる。
ようやく曳航に成功し「漁盛丸」を先頭に「孟盛丸」「遭難船」の順に帰途につくが、北上するルース台風にまともにぶつかり曳航ロープを切らし遭難する。その時の風速は、40㍍以上であったと言われている。視界ゼロの中を漂い「孟盛丸」は、座礁しながらも小池浜に着船。しかしながら「漁盛丸」はいっこうに帰港せず消息を絶った。

その時の瞬間最大風速は60㍍以上に達していたと言う。機関長の四十七歳を最高に最低十九歳、平均二十六歳の「漁盛丸乗組消防団員」二十名は、帰らぬ人となった。
その後、災害対策本部の懸命の捜索活動にも係わらず、一人の遺体も発見出来なかったと言われている。
この遭難事故は、笠沙町消防史上かってない殉職事故であったと言われ、
「噫乎消防の華」の碑は、「殉職同僚によって示された消防団の挺身する気概と友愛と信義を永久に自分のものとする」と言う主旨のもと、笠沙町消防団が中心になり、翌年二十七年、二十名の生命を沈めた東シナ海が一望できる夕日が丘に、慰霊顕彰碑として建てられたものである。

 美しい海岸は、ある時には狂ったごとく様変わりし襲ったのである。海に生きると言うことは、板子一枚まさに地獄と隣り合わせであり、胸の痛い思いにかられる。


<19大当(おおとう)・片浦へ1□□□□□17秋目から笠沙町へ>


2018年05月17日

★思い出の紀行(笠沙)<19大当(おおとう)・片浦へ1

 野間池を後にし、大当・片浦へ。鼻山、高崎山(乗越の岡)が北方に突き出た海岸沿いの道である。野間池湾口の「みなと公園」を過ぎ、拡張され整備された直線道を走ると、道路脇に「シジリ山かくれ念仏跡」の石碑が立っている。シジリと呼ばれた山があったのであろうか、現在は平坦な場所にその石碑はあった。
また、このあたりの海上には、一年を通してイルカを見ることが出来ると言うことであり、たまにクジラも姿を現すと言う。

しばらく海上を眺めながら進むと、道は狭まり山並みは高くそびえ、平地の少ないこの地域は、「耕して天に至る」と言われるごとく、山の斜面を切り開き石積みで囲われた段々畑が山の中腹まで延びていた。

薩摩藩の全般がそうであるが、昔は、米だけを炊いたコメンメシを口にすることはほとんどなく、たいてい少しの米に麦やカライモ(薩摩芋)を混ぜて炊いていたカライモンメシ(薩摩芋の飯)やムギメシ(麦飯)を食し、子供達の学校へ持参する弁当は、茹でたカライモであった。
普段コメンメシの食べられなかった当時、行事や祝い事の日に出されるコメンメシは一番のご馳走であったと言われている。

 谷山地区を過ぎると道は、東シナ海に突き出た高崎山(乗越の岡)を回り込むように走っている。その先端は高崎鼻と呼ばれ、見晴らしのいい場所である。船舶の出入りを監視して唐物の抜荷等を取り締まったと言われる異国船遠見番所があった場所でもあり、今でも「番所」と言うバス停が残っている。

「番所」を過ぎ南下すると、いよいよ大当・片浦である。
東方海上に点在する神ノ島や立羽島が真近に見える頃、海岸線は大きく弧を描き、緩やかな入り江を作っていた。
この海岸は、珍しいサンゴ礁が見られると言うことであり、スキューバーのポイントとも言われ、現在は大当海水浴場になっている。

大当部落は、南西の野間岳山麓より流れ出る大当川が緩やかに東シナ海に注ぎ込む谷状をなした地域にあり、集落は河口を中心として西の山手に向かって切り開かれている。
人家は、狭い石畳の通路でつながり、丸石を積み上げた石垣は台風に備えての防護のためであろうか、張り巡らされ独特の景観を作っている。
国道より集落に入る入口には「100万個自然石積・石垣群の里大当」と刻まれた案内石があり、観光名所になっている。
大当は、野間岳の真下に位置し大当川の上流には野間岳が悠然と、その姿を現していた。
野間岳に通ずる道も開かれており、古来より野間岳信仰も盛んに行われていと言う。


 大当と片浦は隣り合わせである。
片浦湾! 私は、地図を広げるなり思っていた。変わった地形である。今までに余り見かけない入江である。ワニが口を開いたように、すべてをくわえ込む形をしている。
坊津から久志、秋目そして笠沙の一部の海岸を渡ってきて、直感的とも言えるヒラメキである。
薩摩における海外との交易の窓口であつたことは察しがついていた。
中世において、また江戸時代において、この港が担って来た役目とは、坊津に初めて足を踏み入れた時と同じ気持ちの高まりを感じていた。
片浦湾は、私の期待を裏切らなかった。

天保時代の「三国名勝図絵」に描かれている片浦は、
「野間岳の東麓に連なり、湾口は北に向かう。港の奥行き2キロメートル、湾口の横幅650㍍、水深32㍍、大船数百艘を繋ぐことができ、実に薩摩藩の諸港中屈指の良港である。
湾口の西岸に一小湾があって(現在の片浦漁港)舟船を停めるに都合が良い。その西岸には、人家が最も多い。通商の唐船が逆風にあったとき、この港に停泊することが往々にある。良港と言うばかりではない。港の入り口には、竹島(神ノ島)楯羽島(立羽島)がそそり立ち、湾岸には人家が断続し、港東には崎山が突き出し、まるで龍が浮かんでいるようである。その絶景なること、つぶさに述べることはとうてい不可能である。」と言う旨が記されている。


<20大当(おおとう)・片浦へ2□□□□□18野間池へ>


2018年05月18日

★思い出の紀行(笠沙)<20大当(おおとう)・片浦へ2

湾口の片浦地区の片浦漁港、ワニの口の奥まった所の仁王崎(漁港)、崎ノ山(海抜100㍍)半島の付け根の小浦地区、その東岸の小浦漁港。
藩政時代は、片浦、小浦は加世田郷に属し、浦と呼ばれる行政区に属していた。
小浦には浦役庄屋役所があり、片浦には浦の支配を行う浦役所が置かれ、加世田から浦役一家が赴任し業務に当たっていた。

また片浦には、番所鼻と呼ばれる片浦漁港の突端付近の小高い丘に津口番所が置かれ、船の出入りを改め違法な積荷を取り締まった。今でも、この一帯は番所地区と呼ばれている。薩摩藩の浦に対する政策は、外国船や他領船に対する警備力、上方及び南島との海運力の保持と言うことが主な目的であり、万一に備えて若干の武器も備えられていた。
当時の人口は、昭和六十年頃の人口より多かったと伝えられている。

 加世田郷における浦は、現在の加世田に位置する小松原浦、小湊浦。大浦町の大浦。笠沙町の片浦、小浦であったが、加世田の万之瀬川の氾濫による地形の変化で万之瀬川河口の小松原浦には大きな船が近づけなくなると、片浦は益々薩摩藩にとって重要な位置を占めるようになった。
徳川時代、鎖国により外国船の入港が長崎一港に限定されても、唐船やオランダ船の長崎への航路は片浦沖であり、航行困難な場合は片浦港に停泊することが多かった。
また、度々の漂着や寄港は密貿易の温床となり薩摩藩の財政を支えた。


 時代をさかのぼれば、室町時代においては外国との貿易は明国であった。明国との貿易は勘合貿易と呼ばれていたが、実権を握っていた大内氏(山口県)が滅亡すると、倭寇が再び活動し始めた。倭寇の南方琉球方面への航路は、薩摩からであり坊津(坊・泊)は、その根拠地であり片浦、小浦あたりも拠点であった。
片浦湾を見下ろす丘に立つと唐人も含めて当時のにぎわいが見えるようであった。

 島津中興の祖、日新斉(忠良)の長子、貴久が島津本家十五代を継ぎ三州(薩・隅・日)統一を目指す頃。天文十二年(1543年)中国人の倭寇王直の船に同乗していたポルトガル人により種子島に鉄砲がもたらされた。
六年後、天文十八年(1549年)ポルトガルのザビエルがキリスト教と共に鹿児島に上陸。南蛮との貿易を強く望んでいた貴久は、一時領内でのキリスト教の布教を許可し貿易に力を入れようとするが、僧侶たちの強う反対により禁止する。ザビエルは鹿児島を去り、ポルトガルとの南蛮貿易も途絶えた。
その後、南蛮貿易への渇望は島津十六代義久(貴久の長子)に受け継がれてゆく。
義久の時代は、三州統一が完成する時期である。

元亀三年(1575年)木崎原の戦い(えびの市)において日向の伊東氏に致命的な打撃を与え、天正五年(1577年)に日向国を完全に制覇し三州統一を成し遂げる。
さらに島津氏は、九州制覇へと突き進み肥後、豊後を従えてゆくが豊臣秀吉の九州遠征により無条件に降伏する道を歩く。


 その頃、片浦にスペイン船が、ルソンからヒスパニア(メキシコ)に向かう途中、嵐を避けるために入港した。南蛮貿易の独占を計ろうとする秀吉の圧力もあったが、スペインとの交易も盛んに行われるようになり、スペインのアジアにおける根拠地は、ルソン島マニラであり、マニラの日本人町は最大級のものであったと伝えられている。

 二年程前、ひょんなことからフィリピン(マニラ、ミンダナオ)に旅する機会があった。
西暦1521年マゼランによるフィリピン発見以来、スペイン軍は次々と島を占領して西暦1571年にマニラを落として350年にわたり統治する。
マニラ市の中央に位置する所に城塞を作り、フィリピン統治の根拠地としたと言う。
イントラムロスと呼ばれている、今でもその跡が残っていると言う。
スペイン統治以前、フィリピンはアジア大陸から渡ってきたマレー系の民俗が、幾つもの小社会を作っておりイスラム教であった。
スペイン人は、イスラム教を排し統治をたやすくするするためにキリスト教を導入した。
あちこちの島や場所には、立派過ぎる程の教会が建っているが、地元の人の結婚式に立会人として出席する機会があり、バロンタガログ(フィリピンの礼服)を着せられ列席し膝をついてお祈りする体験は、今でも縁とは言え不思議な感じがする。
思えばマレー系、チャイナ系、スペイン系とひと目で分かる顔立ちの人がいたことが思い出される。暑い季節であった精か、毎日、水がわりにサンミゲルと言うビールを飲んでいた様な気がする。
現在、イントラムノスの城壁跡の近くには、チャイナタウンがあると言うことであるが、一六世紀当時の日本人町もこのあたりにあったのであろう。イントラムノス近くのホテルに滞在しながら、知らない事とは言え城塞跡やチャイナタウンに行けなかったことが今では残念である。


<21大当(おおとう)・片浦へ3□□□□□19大当(おおとう)・片浦へ1>


2018年05月19日

★思い出の紀行(笠沙)<21大当(おおとう)・片浦へ3

 その後、島津十七代義弘(貴久二男)の頃には、秀吉の朝鮮出兵などに付随し片浦には、相当の海運力があったと言われている。
江戸時代、島津十八代家久(貴久四男)になると、家康は明国や南蛮との交易をさかんに望んだ。薩摩藩においても、唐船奉行が置かれるなどして積極的に展開し、領内各地には唐人が居留するようになり唐人町が起こった。
国分,串良の唐人町。坊津、久志、阿久根、川内などに地名が残っているが、片浦における林家などは、そのまま帰化した家系である。
この頃は、片浦に盛んに倭寇も出入りしていたと言われ、元和六年(1620年)長崎にいる唐人たちから「薩摩の片浦に出入りしている唐船は、倭寇であるから取り締まるように・・」と島津氏への要求があった。
この時期の倭寇の大部分は、明人、ポルトガル人で日本人は一,二割程度だったと言われているが、薩摩藩はこれに対して、さして取り締まる訳でもなく、かえって注意するよう通達している。
島津十九代光久以降、徳川家光の時代になると、次第に海外との貿易が制限され鎖国の幕藩体制へと移行してゆく。そして、その事は薩摩藩を藩ぐるみの密貿易、抜荷の藩として形作ってゆくことになる。

 唐船の来航において、唐人たちのもたらした信仰が各地に残されているが、特に片浦においては関わりが深く、野間岳信仰と合いまって娘媽(ろうま)信仰が盛んであった。娘媽神は海上の安全の神であり、いつしか野間岳山頂にも祀られるようになり、唐人たちは野間岳の近海を航行する時には、必ず紙銭を焼き金鼓を鳴らして礼拝する習慣があったと言われている。

野間岳の名称も娘媽から来たものであるとも言われているが、定かではない。
娘媽神は、片浦の林家にゆかりがあると言われ、林家の祖は明の遺臣で、明が清に滅ぼされた後に慶長の頃(西暦1644年前後)中国福建省から片浦に渡来し住み着いたと言われている。その時、娘媽神像も一緒にもたらされた。
林家では、娘媽神を「ロバさん」と呼んでいたそうであるが・・・

三国名勝図絵には、
「娘媽女は、中国福建の南、甫田の林氏の娘で、生まれて以来不思議な能力を持ち、ある日、お父さんは無事だつたがお兄さんは、溺れ死んだ! と言う。その後に遭難の知らせが届き、娘の言う通りであった。娘は、海で遭難したとき私を念じて助けを乞えば必ず助けてあげよう! と言い残し自ら海に身を投げてしまう。その屍は、片浦の海岸に漂い着いた。屍の皮膚は、桃の花のようにきれいで、しかも暖かくまるで生きているようであった。土地の人々は、驚き厚く葬った。
三年後、唐人が来て分骨を請うた。以後霊験があらたかで社を山上に建て西宮とした。この娘媽神は、中国では天妃と称し信仰が盛んである。」と記されている。

 娘媽神は、もともと中国の南部地方で信仰された神であり、航海が盛んになるに従って各地へ伝えられた。
娘媽は、一般に媽祖(馬祖)、姥媽、娘媽、天上聖母、天后聖母などと書かれる天妃のことであり、台湾には、娘媽を主神とする廟が三百二十余もあると言う。
 昨年、台湾に旅行に行った際、龍山寺と言う台北市最古の寺廟に参拝したが、そこは仏教や道教が合流し、また民間信仰も合いまって、一つの寺廟の中に違った神仏が同時に祀られると言う台湾特有の寺廟であり、当時は不思議に思っていたが・・・
調べてみると、やはりあった。娘媽信仰が!
海の神としての「媽祖」が、台湾では「マーツゥ」と呼ばれていたが、十六世紀の後半、大陸から多くの人々が台湾海峡を渡って来た時に、海難除けの神様として信仰され祀られたと・・・
昔の私の旅行体験や記憶が、歴史の中で一つ一つ繋がりをもってよみがえって来る。
私は、そんな感慨にふけりながらも、何か不思議なものを感じていた。

 娘媽神ゆかりの林家の墓は、国道脇の片浦湾を見下ろす浄土真宗の本誓寺の裏手の小高い丘にあった。現在付近は、小さな公園になっていたが、後年、林家は一向宗の熱心な信者でもあった。
薩摩の歴史を辿ると、中世期、日新公以来、必ずや一向宗門徒・かくれ念仏の遺跡や講と呼ばれる組織にぶちあたる。そして明治の廃仏毀釈、さらに信仰自由令による満を持したように活発になる浄土真宗。そのことはいかに藩政時代を通して、農民の生活が悲惨であったかを裏付けている。
片浦における一向宗の組織は仏飯講と呼ばれていた。薩摩藩の他の地域の一向宗とは異なり、片浦の浦人たちは水主として藩船に乗り、江戸や大坂に出かけることが多かった事から直接中央と結びついていたと言うことである。ちなみに片浦仏飯講は、摂津国(大阪西成区)の広教寺の門徒に属していたと伝えられている。そして当時の航路は、鹿児島港を出て野間岬を回り、川内の久見崎港、阿久根の脇本港を経て天草近海を通り五島に停泊し、平戸から瀬戸内海に入るのが普通であった。

 私は、片浦を過ぎ湾の奥まった所に位置する仁王崎へと向かった。
仁王崎は、伝説によると火闌降命(海幸彦)と 彦火々出見尊(山幸彦)の争いが起こった地であり、仁王崎は二皇崎の意味でもあると言われている。
それは、海幸彦と山幸彦が、それぞれ生業の道具である釣り針と弓矢を交換することから始まる神話であるが、古くから海洋と深く係わって来た、この地方にふさわしい神話と言える。

小浦の町並みより片浦湾を望む
仁王崎漁港には、日の丸や大漁旗を掲げた漁船が停泊し、近くの公園では祭りが行われている様であった。入口には、第十三回マリンランド笠沙フェスタと書かれてあり、ハンヤ節競演会などが開かれており、まさに大漁旗を掲げて祝う、農村で言うところの秋の収穫祭(ホゼ祭り)であろうか?
私は、さらに小浦の町並みを通り抜け、小浦湾を眺めながら海岸線を走った。


<22野間岳登山□□□□□20大当(おおとう)・片浦へ2>




2018年05月20日

★思い出の紀行(笠沙)<22野間岳登山

 十月も終わろうとする笠沙路。いたる所にたわわに実った柿。その光沢のある色合いが麓の景色に彩りを添えていた。片浦より赤生木(あこうぎ)へと国道226号線を走ると、やがて前方に遠々と続く大浦干拓地が開けてきた。
笠沙町と大浦町にまたがる大浦干拓地。藩政時代以来、着目されながら完成を見なかった干拓事業は、昭和十六年より二十四年の歳月を費やし、太平洋戦争の戦中、戦後の食糧、資材、労力不足の中、ついに昭和四十年に完成した。約336ヘクタールの土地は、現在、笠沙、大浦コシヒカリの産地となっている。

 藩政時代(天明四年・1784年、外城の名称が郷と改められた頃)は笠沙の片浦村、赤生木村と共に大浦村は、加世田郷に属していた。
また古くは、古代より万之瀬川(加世田)流域に住んでいたと言われる阿多隼人。笠沙も大浦も阿多地方の一部であり、笠沙にそびえ立つ円錐状にとがった野間岳(標高591㍍)は、阿多隼人にとっては山の神であると共に、航海、漁労を守護する神の山であった。神話の海幸彦、山幸彦の原形は、この阿多隼人に深く結びついているとも言われている。

 私は、大浦町と笠沙町の町境近くより野間岳に続く山手への道へと引き返すと、野間岳登山を試みた。
古来より開聞岳と共に海上よりの目印になった山。そして南薩地方の信仰の山。山頂より見下ろす笠沙のリアス式海岸を、この目で見ることで笠沙の思い出にしたかったからである。
町境の国道脇に据えられた「笠沙路」と刻まれた巨石越しに見上げる野間岳は、古来からの人々の思いを抱え込んでいるかの様に、せり上がり気高く天を突いていた。

赤生木のバス停より山手へと入ると、ヘゴ自生北限地と印された看板があり、国の天然記念物とされており、さらに進むと道路脇には、小さく埋もれる様に「田の神」がひっそりと佇んでいた。近世、薩摩が生んだ独特の民俗神であり、笠沙町で原形をとどめている雄一のものであると言うことで町指定文化財になっている。
「頭に大きなコシジョケ(こしきみ)をかぶり、左手にメシゲ、右手にスリコギを持ち、右肩から袈裟がけにわらヅトを背負って立つ僧衣の像で高さ86センチ」と記されている。


 野間岳の一の鳥居と言う所に着くと、土に埋もれた鳥居が頭だけを地表に現している。元々背の低い鳥居なのか、後に埋もれてしまったのか定かではないが、ここから見上げる野間岳は間近に迫り神の山の雰囲気である。
椎木部落と言う野間岳登山口に辿り着き、野間神社までの案内図に従って車で十分ほど登ると、古き伝統を彷彿させる境内に着いた。何段かに積まれた石垣の奥まりに社は鎮座していた。
野間神社は、廃仏毀釈以前は野間権現と呼ばれ、近世初頭には娘媽神が合祀されていたことから娘媽権現とも呼ばれていた。

神社の創建は、不詳と言うことであり、記録に残るのは島津忠良(日新斉)の崇敬を受けるようになってからである。元々野間権現は野間岳山頂にあり、東宮に瓊瓊杵尊、鹿葦津姫命(木花開耶姫)。西宮に子供の火闌降命、彦火々出見尊、火明命。が祀られていたと言う。(境内の神社由緒書には、反対に記されている。記録違いか!)天文二十三年(1554年)に島津忠良(日新斉)が東宮を再建し、永禄十年(1567年)に西宮を再建したとある。
その後、娘媽信仰が盛んになると娘媽神女、千里眼、順風耳の三座が西宮に祀られたと言う。度々山頂の社殿は台風により倒されたが、島津斉興によって文政十三年(1830年)、山頂より現在の場所に両宮を合祀して再建された。


 私は、境内下の駐車場に車を停め、リツクを背負って神殿の右手より野間岳山頂を目指した。夏に霧島に登って以来の登山である。体力もかなり落ちていたが、山頂まで約四十分と言うことで、コンクリートで作られた坂道を歩き始めた。
所々で、風倒木が登山道を阻んでいたが、しばらくすると野間山頂が見渡せる場所に出た。傾斜が急になりゴツゴツとした巨大な岩石が目に飛び込む。一休みして急傾斜に挑む。頭上に岩石を抱え込むような登山道である。多くの修験者も登ったのであろう。コククリートの擬木に繋がれた鎖が山頂近くまで続いている。途中の展望所で下界を望めながら登ること四十分弱で山頂に辿り着いた。

山頂の平坦な場所には、
「神代聖蹟竹島」の碑が建てられていた。
碑文には「天孫瓊瓊杵尊笠狭之碕ニ至リ竹島ニ登リ給フ竹島ハ即チ野間嶽ニシテ尊ノ国見シ給ヘル聖蹟ナリ」と刻まれている。
近くの小高い場所には、石垣で囲まれた石祠があり、野間権現社跡が残されている。
また足下には、五㍍もある岩石に凡字が刻まれていた。
さらに突き進んだ展望のいい場所は、巨大な岩石が山頂を形成し、眼下には鳥のくちばし状の野間岬、その付け根の野間池が開け、この山頂ならではの景観である。この景観を眺めるだけでも清々しい思いがする。

 しばらく岩肌にもたれながら東シナ海を眺めていると、小船が小さな白波の軌跡を残しながら、音もなくゆっくりと突き進んで行く。
ここは静かだ! まるで時間が止まっている様である。誰一人いない山頂は、時たま冷たさを含んだ風がスリ抜けて行く。
信仰の山の頂で、静かに瞑想するのもいい! 
しばらく目を閉じていると、今ここに居る己の存在そのものが不思議に思えてくる。
・・・・・・・・

登山は登りより下りがきついが、やはり下山途中で膝を痛めた。
どこかで捻ったのであろう、みるみる痛みが増してくる。体をだましだまし下山し、ようやく足の痛みが薄れた頃、国道へ引き返し左手に大浦干拓地を眺めながら大浦町から加世田へと向かった。



<23加世田(現在南九州市)へ□□□□□21大当(おおとう)・片浦へ3>


2018年05月21日

★思い出の紀行(加世田)<23加世田(現在南九州市)へ

加世田へ
 大浦町は、東シナ海に接する部分が短く、大浦川の上流に沿って南に細長く開けた町である。数分もすると、加世田に入り小湊干拓が見え始めた。
国道より左に折れ小湊港へ立ち寄る。
小湊は、地形を利用した港と言う感じではなく、遠浅のためコンクリートの突堤が直線的に海に向かって遠々と延びている。人工的に作られた湾内では、日曜日の精か釣り人たちが大勢釣りを楽しんでいた。
また、小湊の海岸からは日本三大砂丘の吹上浜につながる砂丘が南北に四十七㌔に渡って弧を描くように続いている。
古来より、このあたりは漂着船や漂着物が多く、藩政時代には漂着物に対する取り決めが行われ、その所有や配分などが決められていたと言う。
小湊の町並みの国道沿いにある寄木八幡宮は、豊前国宇佐八幡宮の御神木が漂着した時、その神木を刻んで神体とし祀られたと伝えられている。

 小湊を過ぎ、国道226号線を突き進むと小松原、大崎、唐仁原へと続く、この一帯は、昔は万之瀬川の河口沿いにあたっており、「吹上浜の真砂に埋もれて老木ながらの小松原」と古歌にうたわれ、小松原の地名は、ここから来ているとも言われている。

享和二年(1802年)頃の大洪水で河口は、現在、新川と呼ばれている場所に変わってしまったが、当時、小松原は加世田で最も古い河口港で、中国の船や南方からの船が頻繁に出入りし、商業の中心として栄えた。今でも万之瀬川河口であった場所には、当時船を繋いだと言われている「舟つなぎ石」があり市の指定文化財になっている。
小松原には、この港に出入りする外国船の見張りのための監視所が河口近くの小高い丸塚山にあり、その下に役館所を設けて役人一人が勤務していた。

 資料によると、外国船が沖に近づくと早打ちで藩庁に知らせ、藩から差し向けられた役人は、外国船とひそかに貿易し、そのあと外国船を片浦港に伴い、ここで島津藩の水師を乗り込ませて長崎に回航し難破船として届けたと言われている。即ち密貿易である。

その時の通訳は唐通事と言われ、代々鮫島家が任ぜられ屋敷は丸塚山の近くにあった。
鮫島家は代々小松原に住し、秀吉の朝鮮の役の時には鮫島宗政は、この港から出陣した。
帰国すると家督を弟に譲り身分を捨て、自ら貿易商として「権現丸」「伊勢丸」の二隻の大型船を建造し小松原を根拠として巨大な富を築いたと言われている。

 小松原より国道をそれ吹上浜へと向かった。
現在、吹上浜には、巨大な敷地の県立吹上浜海浜公園が整備され、県内屈指の規模を誇るキャンプ場やスポーツ施設、レクレーション広場が人々のいこいの場所になっている。
現在の万之瀬川河口(新川港)には、対岸の金峰町とを繋ぐサンセットブリッジが掛けられ加世田の観光名所になっている。
私は、浜辺への道を探した。吹上浜海浜公園をほとんど一周りして、やっと前之浜海岸への道を探した。車を停め、痛みのある足を引きずりながら浜へと歩いた。ゴツゴツとした砕石で固められた地面には、雑草が繁り登山靴を通して痛む膝に響いた。まだまだ海岸までは遠いらしい。見えない! しばらく歩くと防風のために植裁された松林が小高い丘をなして続いている。砂地に入った! 足が砂地にめり込む! ゆっくり踏みしめながら丘を登りつめると、潮騒と共に吹上浜砂丘が遠々と開けていた。沈み掛けた日射しに照らされ、白銀色のキラメキの遠方には、秀麗な野間岳が小さく姿を現わしていた。

七月より約四ケ月、枕崎を起点として坊津、笠沙の海岸を旅してきて、やっと吹上浜の砂丘に立った。梅崎春生の遺作となつた「幻化」の主人公、五郎が辿った道程(坊津から吹上浜)。
海辺で戯れる人々を眺めながら、しばらく砂丘に腰をおろし、辿った道を思い浮かべていた。坊津の夏の日射しと共に歩いた一乗院。夕暮れの泊港。秋目の鑑真上陸など。思い出と共にしまい込むには、まだ早すぎるほど鮮烈な余韻が押し寄せてくる。

 夕暮れが迫ってくる。私は、最後の目的地である竹田神社に向かう。
加世田を語るには、島津忠良(日新斉)を避けて通れないからである。
日新公は、明応元年(1492年)伊作に生まれ、その生涯のほとんどを戦に明け暮れた戦国の武将である。天文九年(1540年)日新公四十九歳のとき、加世田を支配して以来七十七歳で亡くなるまで二十八年間加世田に在住し戦乱の薩摩,大隅,日向の三州統一を成し遂げ、島津家中興の大業を成し、自らも学問や武芸,禅,和歌を極め薩摩士風と薩摩藩文化の基礎を築いた武将である。

竹田神社の起源は、室町時代の保泉寺にさかのぼるが、永禄七年(1564年)日新公は保泉寺を再興し、自らの菩提寺と定め日新寺と改名した。
その後、明治二年の廃仏毀釈により取り壊されたが、日新公の遺徳を残すため社殿が造営され公の座像を御神体として明治六年竹田神社と改め現在に至っている。

 日新公の長子(貴久)が大永七年(1527年)島津本家の養子となり十五代を継いで以来、領主、貴久はじめ二男、忠将。三男、尚久。そして孫の義久、義弘を従えて、三州統一へと乗り出して行く。

 その主な戦いは、
日新公五十一歳。天文十八年(1549年)加治木城の戦いにおいて肝付兼演を攻
        めこの戦いにおいて初めて実戦に鉄砲が使われる。
日新公六十三歳。天文二十三年(1554年)帖佐の岩剣城の戦いにおいて蒲生氏
        との戦い。日新公六十六歳。弘治三年(1557年)蒲生本城を
        落とし、北薩を平定。
日新公六十八歳。永禄二年(1559年)飫肥(日南)においての伊東氏との戦い
日新公七十歳。 永禄四年(1561年)廻城(福山町)の戦いにおいて肝付兼続
        との戦い。この戦いで日新公二男、忠将、討死。
日新公七十五歳。永禄九年(1566年)伊東氏と三の山(小林)の戦い。
日新公七十七歳。永禄十一年(1568年)日新公、永眠。

日新公、永眠の四年後元亀三年(1572年)木崎原の戦い(えびの市)において相当な打撃を伊東氏に与え、天正五年(1577年)伊東氏、豊後(大友氏)に逃走により、ようやく三州平定が成し遂げられる。

 長い年月を経て、三州平定への戦いを支えた日新公の子や孫たち。そして相当な軍資金。その財源を支えたのは、当時の密貿易であり、倭寇であったと伝えられている。
そして、薩摩における密貿易、倭寇の総大将は、当時、駕篭(枕崎)の城主、日新公の三男、尚久であったと言われている。
尚久は、享禄三年(1530年)日新公の第二夫人、桑御前との間に伊作亀丸城に生まれ、幼名を曇秀丸と言い、大男で弓の名人であった。尚久の使った太刀は、刃渡り五尺の薩摩の波の平であったと言う。
尚久は、領地であった坊津、泊、久志、秋目、片浦、大浦の一帯から野間半島を根拠地として、遠くは沖縄、中国、南方諸島へと交易を広げていた。
しかしながら、永禄五年(1562年)三十二歳と言う若さで、この世を去る。
その原因については、永禄四年(1561年)廻城の戦いで、兄の忠将が戦死を遂げたことについて、兄弟力を合わせなかったと言うことで、父、日新公の機嫌が悪く、それがもとで早死したと伝えられている。
戦乱の激動の時代を、急ぎ駆け抜けて行った武将。そして、三州統一に向かって軍資金調達と言う裏方を担った若き密貿易、倭寇の総大将、尚久。
私は、以前から興味を持っていたが、若くしてこの世を去ったためか、倭寇と言う存在がそうさせるのか、歴史的資料は少ない。
現在、竹田神社の境内の一角に、ひっそりと尚久の墓は佇んでいる。
日新公は、尚久の死に対し、

 大人も別れの道は友もなや 死出の山路を独り行くらん。

と歌を残した。それを知り、尚久に同情し殉死した一人の武将の墓が、尚久の墓に寄り添うように建っている。

 私の今回の一連の旅(坊津―笠沙―加世田)の、もう一つの目的は、
尚久の残した足跡を探す旅でもあった。多くの資料を読みあさる内に、少しづつ明るみに出てくる事実が、私をさらなる旅へと駆り立ててゆく。
興味の尽きない旅は、私のこれからのライフワークの一つになり始めている。
そして、その先にある原郷が、うっすらとではあるが、見え始めて来ている。

                        平成十一年十一月九日記。


  参考文献

「笠沙町郷土誌」(上・中・下巻)       笠沙町
「加世田市史」(上・下巻)          加世田市
「ふるさと加世田の史跡」           加世田市教育委員会
「鹿児島県の歴史」    原口 泉      山川出版



★思い出の紀行<1韓国旅行1□□□□□22野間岳登山>




2018年05月22日

★「田の神さぁ~」とは? そもそも何者か?

宮崎や鹿児島には、豊作を願って、あちこちに「田の神さあ」と言う石像が建っている。
小林市にも結構見かける。
「田の神さあ」にも色々タイプがあるそうです。神官(神像)型、地蔵(仏像)型、農民(田の神舞)型、自然石(文字碑)型などあるそうです。
特に小林市の新田場の田の神は鳥帽子をつけた神官型で、宮崎県内では最古の田の神と言われているそうです。

南九州をあちこちすると、良く大山祇(おおやまずみ)とか木花開耶姫(このはなさくやひめ)とかニニギノミコトは良く聞く神様です。

ニニギノミコトのお后は、木花開耶姫(このはなさくやひめ)ですが、すぐに別れているとか・・・
大山祇(おおやまずみ)は、「山の神」とも言われているそうです。
大山祇(おおやまずみ)の子供が、一説によると大国主命(大巳貴)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)であるそうです。
ここに出でくるのが大幡主命(おおはたぬしのみこと)です。
大国主命(大巳貴)は、大幡主命の孫娘を何番目かのお后にしたことから○○主の名前をもらったと言われています。
○○主の系統の神様には、天之御中主神(あめのみなかぬし)などがいます。
古事記などの神話に出てくる。天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとされています。
その後高御産巣日神(たかみむすび)、神産巣日神(かみむすび)が現れ、この三柱の神を造化三神といわれています。その中で大幡主命は神産巣日神(かみむすび)と言われています。
この大幡主命は、意図的か分かりませんが、歴史の舞台からは軽んじられているみたいです。
大山祇(おおやまずみ)「山の神」と共に九州に稲作を広め指導したのが大幡主命ですね。
「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成している”と言われています。

ふと気づくと霧島連山に大幡山と大幡池が存在するのも分かる様な気がします。

以前、宮崎県のひなもり台オートキャンプ場から大幡山、大幡池へ登山したとき、途中で用水路を横切る道のりでした。
この用水路は小林市の水利組合が水利権を持つ農業用水(灌漑)として、大幡池から水を引いてると言うことだった。






2018年06月14日