★思い出の紀行(韓国)<7古墳公園へ

慶州市街にある古墳公園。

新羅千年の歴史を刻んだ王都、慶州は、まさに古墳が主役の町である。
景観保護のために、一部の地域を除いては建物は三階建てまでしか許可されないと言う。
慶州で確認されている古墳だけでも676基にものぼり、数十基づつ群をなして存在する。新羅初代より五十六代までの王陵があると推定されているが、現在38基が確認されているだけで、未だに手つかずの状態であると言われていた。

新羅は、初代の赫居世の朴(パク)氏、四代からの脱解王の昔(ソク)氏、十三代からの味鄒王の金(キム)氏へとだいたい三姓交代の形で発展してきた。
特に、昔(ソク)においては倭国の東北の多婆那国の生まれであり、この地に渡って来たとも伝えられている。

 古墳公園は、大陵苑と呼ばれ最も古墳が密集しているエリアであり23基が集まっている。この中に味鄒(ミチユ)王陵があることからして朝鮮半島の三国時代初期の頃からの金氏一族のものにであろうと言われている。

古墳公園の入り口より古墳群に続く石畳の道は、両サイドから所々紅葉がドームを作り、根元を赤く染めていた。しばらく歩くと右手の道路の正面には、石塀に囲まれ門構えの施された古墳があった。新羅十三代味鄒王のものと言われ、門扉には赤と青の陰陽を表した太極図が描かれ、王陵としての風格を漂わせ、千数百年の時を経てもその存在を誇っている様に思えた。

円墳の中央の奥まった所には、数々の埋葬品と共に深い眠りについているいるのであろうか・・・・・・
この時代頃から古墳は巨大になって行くと言う。
慶州における古墳は円墳であり、わずかに仏国寺近くににある九政里にある一基のみが方形墳であるが、大陵苑の中にある墳墓の形は、古墳初期の積石木槨墳であり、地表や地下に墓穴を作って木棺を埋葬し回りを木槨でかこい、その上に人の頭の大きさの石を積み上げ、その外を粘土で塗り付けて固める形式である。

味鄒王古墳を過ぎしばらく行くと二つの古墳が重なり合うようにひょうたん状の瓢形墳と呼ばれる古墳がある。慶州最大の古墳であり皇南大塚墳とも呼ばれ高さ25㍍、底辺の直径83㍍の双墳で、夫婦や父子の古墳であると言われていた。

また、公園の一番奥まった所にある天馬塚と呼ばれる古墳は、内部の様子が見学できる様になつており、積石木槨古墳の構造が一目で分かる。積石に使われた石は、3年かがりで積まれたと言う。
発掘された当時のままがレプリカとして展示され、埋葬者は副葬品と共に頭を北に向けて寝かされ、土は空気に触れた際に酸化し焼けた様に黒くなっていた。
被葬者は、山字形金冠を有することから王陵級のものであると言われ、近くの副葬品収蔵柩には、飾履をはじめ実に一万二千点に及ぶ豪華な副葬品が納められていたと言う。

被葬者の頭の方向には、金製の冠帽、銀製の帯、銀製の腰佩(腰にまとう物)など、足の方向には、金銅の履き物など、その他鉄斧、鉄槍、鉄ヤジリなど。そして数々の馬具類、その中で、馬に乗って走る時の泥よけと言われる障泥板。白樺の皮を何枚も重ねて作った障泥板の上に描かれた雲に乗って飛ぶ天馬の姿は、五~六世紀のものとは思えない程の鮮やかさで見る人を驚かせる。
この古墳が天馬塚と言われる由縁である。そして、この地方の王が騎馬民族であったことを裏付けている。


<8慶州国立博物館へ□□□□□6月城陶窯へ>



2018年05月29日