★宮崎県 国道268号線を行く2

現在、野尻町は、
平成22年(2010年)3月に小林市と野尻町が合併し、現在新小林市になった。
以前は人口1万人弱、世帯数おおよそ3000世帯の野尻の街並みを過ぎ東進すると、やがてブラツクバスの釣りの名所として全国的に有名な野尻湖が、国道を遮る。

野尻湖の対岸は、現在町営の歴史民俗資料館も兼ね備えた一大レジャーセンター「のじりこぴあ」が広がる。

 

国道は、野尻湖を大きくまたぐように戸崎橋が架けられているが、中世においては、手前の小高い丘には山城があった。戸崎川と南谷にかこまりた伊東氏48城の一つである戸崎城は、まさに天然の要害としての趣である。永禄年間には、伊東方の肥田木四郎左衛門尉が城主であつたが、島津氏と伊東氏の日向の関ヶ原とも言われる木崎原の戦いで城主の肥田木氏が戦死すると、その後、漆野豊前守が城主になるも、1577年(天正5年)以降は島津領となつた。

 

 萩の茶屋を過ぎ紙屋に入った。紙屋の関所跡を訪ねてみた。
紙屋にも、中世の山城があつた。伊東方の米良肥後守を城主とする紙屋城である。

伊東氏は、木崎原の戦い後、急速に衰えてゆくが、それは、島津氏の軍勢に敗れたと言うより伊東氏の内部分裂に原因があったと言える。そのことを日向では「伊東崩れ」と言われている。

木崎原の戦いの三年前、1569年(永禄12年)7月、伊東11代当主として人望も厚く今後島津に対抗してゆくには最もふさわしいと言われた義祐の嫡男・義益が24歳という若さで都於郡で急死したのは、伊東氏にとっては悲運と言えば悲運であり、日向の運命を変える一大事件であった。

木崎原の戦い後、島津勢は高原城を攻め、野尻城に至る、1577年(天正5年)野尻城を守る福永丹後守が伊東義祐に対する不満をつのらせ、ついに伊東氏より離反すると戸崎城主・漆野豊前守、紙屋城主・米良肥後守が次々と島津の軍門に下った。
この三城の落城が、伊東氏の没落を一気に突き進めて行くことになったと言われている。

紙屋の関所跡は、国道より左手に300㍍ほど登った紙屋小学校の裏手に残されていた。
薩摩の九関所の一つである。
史跡の説明書きには、

「町指定史跡・紙屋関所跡
指定年月日 昭和56年9月18日。

この境目番所(陸路番所)は薩摩藩の九つの番所の一つであり御番所とも言われ、また土地の人は「ばんどこ」ともよんだ。関所といえば幕府の直轄したものを指すと思われるが、薩摩藩では番所も関所と呼んでいたようである。近くに高岡町の去川(さるかわ)番所、えびの市の球磨口番所がある。

関ヶ原の戦い(1600年)で豊臣方に加わり敗退した島津義弘は、日向の国に上陸後、伊東勢(徳川方)に苦しめられたことから、去川番所の他に四郷(高岡、穆佐、倉岡、綾)所謂、関外四郷を置き、また紙屋番所を設けて、この地方の防備を固めたと言われる。

番所には、上番(瞹「郷土年寄」ヨリ兼務)定番2名、加番3名がいて非常を戒め、他藩旅客の藩内通行の者を改めた。厳重な取締りの例として紙屋番所への犬一匹の通行許可願とか去川番所から紙屋番所への犯人取り押さえの依頼文書等が遺されている。

ここの井戸は当時のものである。紙屋宮前老人クラブは、この史蹟を永遠に伝えるため、明治百年記念事業として顕彰碑を建立し今もこの管理にあたっている。
平成4年3月 野尻教育委員会。」

と記されている。

 

<去川の関跡□□□国道268号線を行く(小林-野尻-高岡線)>

2018年05月08日