★宮崎県 国道268号線を行く・去川の関跡

宮崎県 西郷どん、日向送り-高岡・去川の関跡へ

国道10号線を帰途につく。宮崎より生目を過ぎ大淀川に架かる花見橋を渡ると高岡町である。
途中、バイパスのトンネルを避け旧道に入り大淀川づたいを走ると、前方に大の丸橋、北方には街並みを見下ろすように天ケ城(あまがじょう)が小さく山頂に見え始めた。
この地方は、昔、久津良(くずら)と呼ばれており日向における戦略上重要な位置を占めており、諸豪族等の争奪がくり広げられた所である。
高岡と呼ばれるようになつたのは、1600年、島津義弘が久津良郷に高岡城(天ケ城)を築いてからである。

 関ヶ原で西軍についた義弘は、家康の本陣を突破して海路にて日向細島に逃げ帰り帰鹿した。
そして、徳川方についた伊東氏の防衛のために天ケ城を築城すると共に、薩摩の各地より武士730余名を移住させ比志島紀伊守国貞を地頭に任じ守りをかため、2万石の城下町を形成した。

 

 高岡郷は、国境の大郷であり軍事上の重要基地であったことから知行も高く200、300石の優秀な武士を配置したと言われている。
現在も多くの屋敷跡が残されていると聞くが、街並みを過ぎ天ケ城へと向かう。
天ケ城へは、国道パイパスのガードをくぐり急な坂道を登る。かなり大きな山城であったのであろう坂の途中からは、眼下に高岡の街並みが一望できる。天ケ城は、桜の名所と聞いて知っていたが、初めて来てみてその大きさに驚くばかりである。
城跡には、現在歴史資料館を兼ねた天守閣が建てられ、高岡の観光名所になっている。
資料館は、1~3階までが資料室であり4階は展望所になっていた。
階を登ってゆくと、いきなり裃に身を包み正座した武将が、こちらを見据えて声を掛けてくる。

島津義弘を形作った人形であり、薩摩弁による歴史解説が始まる。おもしろい趣向である。
階上の展望所からは、四方の山並みや高岡の城下町がさらに小さく望めた。
当時の天ケ城は、6郭に分かれ本丸、二の丸、天ケ城など郭名が付いていたと言われている。
しかしながら、1615年の一国一城令により廃城になった。



 天ケ城を後にし去川の関に向かった。
やはり、行ってみようと思った。都城方面に向かうと、山間の谷をくねりながら流れる大淀川を左右に見下ろしながら幾つかの橋を渡る。高岡から大淀川をさかのぼる一帯は、中世時代には幾つもの山城があったと記録されているが、小林方面と都城方面の分岐点より6キロほどさかのぼると去川の関であった。

鹿児島城下より人々が領外に出る街道は、出水筋、大口筋、そして東目筋(ひがしめすじ)と呼ばれた高岡筋であり、加治木、都城、去川を通り高岡に通じていた。現在の国道とは、やや異なるが薩摩街道と呼ばれる道筋は、山づたいを来ても川づたいを来ても去川の関を通らなければならなかった。

現在は、上流にダムが出来て川もゆるやかに流れているが、当時は激流であり竿を刺しても流される程であったと言われている。わずかに上下の岩によって、よどみの生じていた場所が去川の関であった。
薩摩は、二重鎖国の国と言われたごとく、領外との行き来には警戒が厳しく犬一匹も通さないほどの関所であつた。これ程までに厳重であった理由は、外からの危険な情報や特に一向宗を阻止するためばかりでなく、常に徳川幕府に対する警戒心の現れであった。また領民を支配する上からも好都合であり藩ぐるみの密貿易を隠蔽するのに必要であったと言われている。


去川の関は、現在、去川小学校の国道脇に一部史跡として残されていた。

史跡には
「県指定史跡 去川の関跡
指定年月日 昭和8年12月5日
今から約430年前の永禄年間(1558年~1570年)、伊勢国の国守・佐々木義秀の家臣であつた伊勢二見ケ浦の城主・二見岩見守久信は、織田信長に攻められ薩摩の蒲生郡に逃れ移りました。
天正年間の中頃(1582年頃)島津氏の勢いは大変強く、第16代・島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。義久は、国境の防備を固めるため関所をここ去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。以来、二見家は11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1870年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。
去川関所は、高岡郷、穆佐(むかさ)郷、綾郷、倉岡郷、そして支藩佐土原へ通ずる薩摩街道の大事な地点にあり、大変厳しい取調べが行なわれた所と言われています。
当時は、現在の去川小学校の門前に渡船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改められて薩摩路の旅に着きました。今では、その遺跡として門柱の礎石が一つ残っているだけです。
平成7年3月30日 高岡町教育委員会」
と記されている。


薩摩では、この去川の関の外側に置かれた郷を関外(かんがい)四ケ郷と呼んでおり、敵が攻め入る場合は、まず高岡郷士と戦いさらにこの去川の関を渡る必要があった。
すなわち高岡郷士は、領外の番人としての役目を果たしていたと言える。また、罪人が「日向送り」「長送り(ながおくり)」と言われることを恐れたのは、去川の関を越え領外に出ることは、高岡郷士により撲殺されることを意味し、すなわち死刑を言い渡されることであった。
幕末には、西郷隆盛が京都の勤王僧・月照をかくまつたことにより「日向送り」とされたことで月照と共に錦江湾に入水自殺をはかったほど恐れられていたと言える。
川幅は昔とあまり変わらなかったはずであるが、渡し場に降りてみると、今では何事もなかった様に小舟が一艘、岸につながれていた。


御定番であった二見家の歴代(初代~11代)の墓は、小学校前に県指定史跡として氏名とともに保存されている。

また、小学校裏手には、二見家の屋敷跡が観音開きの武家門と共に残っており、現在も子孫の方であろうか住まわれている。
さらに道の奥まった所には、国指定天然記念物・去川の大いちょうの木が天に向かってそびえたつていた。、このいちょうは、島津氏初代忠久(1179年~1227年)が薩摩街道であったこの地に植えられたものと伝えられており推定樹齢は約800年と言われている。

去川の大いちょうは、800年もの去川の歴史を見続けてきたのであろうか、その存在感と共に大地にどっしりと根を下ろしていた。
私は、その大きさに驚きつつ、再び夕暮れせまる大淀川づたいを帰路についた。

平成12年11月8日 記。


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2018年05月09日