★思い出の紀行(笠沙)<22野間岳登山

 十月も終わろうとする笠沙路。いたる所にたわわに実った柿。その光沢のある色合いが麓の景色に彩りを添えていた。片浦より赤生木(あこうぎ)へと国道226号線を走ると、やがて前方に遠々と続く大浦干拓地が開けてきた。
笠沙町と大浦町にまたがる大浦干拓地。藩政時代以来、着目されながら完成を見なかった干拓事業は、昭和十六年より二十四年の歳月を費やし、太平洋戦争の戦中、戦後の食糧、資材、労力不足の中、ついに昭和四十年に完成した。約336ヘクタールの土地は、現在、笠沙、大浦コシヒカリの産地となっている。

 藩政時代(天明四年・1784年、外城の名称が郷と改められた頃)は笠沙の片浦村、赤生木村と共に大浦村は、加世田郷に属していた。
また古くは、古代より万之瀬川(加世田)流域に住んでいたと言われる阿多隼人。笠沙も大浦も阿多地方の一部であり、笠沙にそびえ立つ円錐状にとがった野間岳(標高591㍍)は、阿多隼人にとっては山の神であると共に、航海、漁労を守護する神の山であった。神話の海幸彦、山幸彦の原形は、この阿多隼人に深く結びついているとも言われている。

 私は、大浦町と笠沙町の町境近くより野間岳に続く山手への道へと引き返すと、野間岳登山を試みた。
古来より開聞岳と共に海上よりの目印になった山。そして南薩地方の信仰の山。山頂より見下ろす笠沙のリアス式海岸を、この目で見ることで笠沙の思い出にしたかったからである。
町境の国道脇に据えられた「笠沙路」と刻まれた巨石越しに見上げる野間岳は、古来からの人々の思いを抱え込んでいるかの様に、せり上がり気高く天を突いていた。

赤生木のバス停より山手へと入ると、ヘゴ自生北限地と印された看板があり、国の天然記念物とされており、さらに進むと道路脇には、小さく埋もれる様に「田の神」がひっそりと佇んでいた。近世、薩摩が生んだ独特の民俗神であり、笠沙町で原形をとどめている雄一のものであると言うことで町指定文化財になっている。
「頭に大きなコシジョケ(こしきみ)をかぶり、左手にメシゲ、右手にスリコギを持ち、右肩から袈裟がけにわらヅトを背負って立つ僧衣の像で高さ86センチ」と記されている。


 野間岳の一の鳥居と言う所に着くと、土に埋もれた鳥居が頭だけを地表に現している。元々背の低い鳥居なのか、後に埋もれてしまったのか定かではないが、ここから見上げる野間岳は間近に迫り神の山の雰囲気である。
椎木部落と言う野間岳登山口に辿り着き、野間神社までの案内図に従って車で十分ほど登ると、古き伝統を彷彿させる境内に着いた。何段かに積まれた石垣の奥まりに社は鎮座していた。
野間神社は、廃仏毀釈以前は野間権現と呼ばれ、近世初頭には娘媽神が合祀されていたことから娘媽権現とも呼ばれていた。

神社の創建は、不詳と言うことであり、記録に残るのは島津忠良(日新斉)の崇敬を受けるようになってからである。元々野間権現は野間岳山頂にあり、東宮に瓊瓊杵尊、鹿葦津姫命(木花開耶姫)。西宮に子供の火闌降命、彦火々出見尊、火明命。が祀られていたと言う。(境内の神社由緒書には、反対に記されている。記録違いか!)天文二十三年(1554年)に島津忠良(日新斉)が東宮を再建し、永禄十年(1567年)に西宮を再建したとある。
その後、娘媽信仰が盛んになると娘媽神女、千里眼、順風耳の三座が西宮に祀られたと言う。度々山頂の社殿は台風により倒されたが、島津斉興によって文政十三年(1830年)、山頂より現在の場所に両宮を合祀して再建された。


 私は、境内下の駐車場に車を停め、リツクを背負って神殿の右手より野間岳山頂を目指した。夏に霧島に登って以来の登山である。体力もかなり落ちていたが、山頂まで約四十分と言うことで、コンクリートで作られた坂道を歩き始めた。
所々で、風倒木が登山道を阻んでいたが、しばらくすると野間山頂が見渡せる場所に出た。傾斜が急になりゴツゴツとした巨大な岩石が目に飛び込む。一休みして急傾斜に挑む。頭上に岩石を抱え込むような登山道である。多くの修験者も登ったのであろう。コククリートの擬木に繋がれた鎖が山頂近くまで続いている。途中の展望所で下界を望めながら登ること四十分弱で山頂に辿り着いた。

山頂の平坦な場所には、
「神代聖蹟竹島」の碑が建てられていた。
碑文には「天孫瓊瓊杵尊笠狭之碕ニ至リ竹島ニ登リ給フ竹島ハ即チ野間嶽ニシテ尊ノ国見シ給ヘル聖蹟ナリ」と刻まれている。
近くの小高い場所には、石垣で囲まれた石祠があり、野間権現社跡が残されている。
また足下には、五㍍もある岩石に凡字が刻まれていた。
さらに突き進んだ展望のいい場所は、巨大な岩石が山頂を形成し、眼下には鳥のくちばし状の野間岬、その付け根の野間池が開け、この山頂ならではの景観である。この景観を眺めるだけでも清々しい思いがする。

 しばらく岩肌にもたれながら東シナ海を眺めていると、小船が小さな白波の軌跡を残しながら、音もなくゆっくりと突き進んで行く。
ここは静かだ! まるで時間が止まっている様である。誰一人いない山頂は、時たま冷たさを含んだ風がスリ抜けて行く。
信仰の山の頂で、静かに瞑想するのもいい! 
しばらく目を閉じていると、今ここに居る己の存在そのものが不思議に思えてくる。
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登山は登りより下りがきついが、やはり下山途中で膝を痛めた。
どこかで捻ったのであろう、みるみる痛みが増してくる。体をだましだまし下山し、ようやく足の痛みが薄れた頃、国道へ引き返し左手に大浦干拓地を眺めながら大浦町から加世田へと向かった。



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2018年05月21日