★思い出の紀行(笠沙)<21大当(おおとう)・片浦へ3

 その後、島津十七代義弘(貴久二男)の頃には、秀吉の朝鮮出兵などに付随し片浦には、相当の海運力があったと言われている。
江戸時代、島津十八代家久(貴久四男)になると、家康は明国や南蛮との交易をさかんに望んだ。薩摩藩においても、唐船奉行が置かれるなどして積極的に展開し、領内各地には唐人が居留するようになり唐人町が起こった。
国分,串良の唐人町。坊津、久志、阿久根、川内などに地名が残っているが、片浦における林家などは、そのまま帰化した家系である。
この頃は、片浦に盛んに倭寇も出入りしていたと言われ、元和六年(1620年)長崎にいる唐人たちから「薩摩の片浦に出入りしている唐船は、倭寇であるから取り締まるように・・」と島津氏への要求があった。
この時期の倭寇の大部分は、明人、ポルトガル人で日本人は一,二割程度だったと言われているが、薩摩藩はこれに対して、さして取り締まる訳でもなく、かえって注意するよう通達している。
島津十九代光久以降、徳川家光の時代になると、次第に海外との貿易が制限され鎖国の幕藩体制へと移行してゆく。そして、その事は薩摩藩を藩ぐるみの密貿易、抜荷の藩として形作ってゆくことになる。

 唐船の来航において、唐人たちのもたらした信仰が各地に残されているが、特に片浦においては関わりが深く、野間岳信仰と合いまって娘媽(ろうま)信仰が盛んであった。娘媽神は海上の安全の神であり、いつしか野間岳山頂にも祀られるようになり、唐人たちは野間岳の近海を航行する時には、必ず紙銭を焼き金鼓を鳴らして礼拝する習慣があったと言われている。

野間岳の名称も娘媽から来たものであるとも言われているが、定かではない。
娘媽神は、片浦の林家にゆかりがあると言われ、林家の祖は明の遺臣で、明が清に滅ぼされた後に慶長の頃(西暦1644年前後)中国福建省から片浦に渡来し住み着いたと言われている。その時、娘媽神像も一緒にもたらされた。
林家では、娘媽神を「ロバさん」と呼んでいたそうであるが・・・

三国名勝図絵には、
「娘媽女は、中国福建の南、甫田の林氏の娘で、生まれて以来不思議な能力を持ち、ある日、お父さんは無事だつたがお兄さんは、溺れ死んだ! と言う。その後に遭難の知らせが届き、娘の言う通りであった。娘は、海で遭難したとき私を念じて助けを乞えば必ず助けてあげよう! と言い残し自ら海に身を投げてしまう。その屍は、片浦の海岸に漂い着いた。屍の皮膚は、桃の花のようにきれいで、しかも暖かくまるで生きているようであった。土地の人々は、驚き厚く葬った。
三年後、唐人が来て分骨を請うた。以後霊験があらたかで社を山上に建て西宮とした。この娘媽神は、中国では天妃と称し信仰が盛んである。」と記されている。

 娘媽神は、もともと中国の南部地方で信仰された神であり、航海が盛んになるに従って各地へ伝えられた。
娘媽は、一般に媽祖(馬祖)、姥媽、娘媽、天上聖母、天后聖母などと書かれる天妃のことであり、台湾には、娘媽を主神とする廟が三百二十余もあると言う。
 昨年、台湾に旅行に行った際、龍山寺と言う台北市最古の寺廟に参拝したが、そこは仏教や道教が合流し、また民間信仰も合いまって、一つの寺廟の中に違った神仏が同時に祀られると言う台湾特有の寺廟であり、当時は不思議に思っていたが・・・
調べてみると、やはりあった。娘媽信仰が!
海の神としての「媽祖」が、台湾では「マーツゥ」と呼ばれていたが、十六世紀の後半、大陸から多くの人々が台湾海峡を渡って来た時に、海難除けの神様として信仰され祀られたと・・・
昔の私の旅行体験や記憶が、歴史の中で一つ一つ繋がりをもってよみがえって来る。
私は、そんな感慨にふけりながらも、何か不思議なものを感じていた。

 娘媽神ゆかりの林家の墓は、国道脇の片浦湾を見下ろす浄土真宗の本誓寺の裏手の小高い丘にあった。現在付近は、小さな公園になっていたが、後年、林家は一向宗の熱心な信者でもあった。
薩摩の歴史を辿ると、中世期、日新公以来、必ずや一向宗門徒・かくれ念仏の遺跡や講と呼ばれる組織にぶちあたる。そして明治の廃仏毀釈、さらに信仰自由令による満を持したように活発になる浄土真宗。そのことはいかに藩政時代を通して、農民の生活が悲惨であったかを裏付けている。
片浦における一向宗の組織は仏飯講と呼ばれていた。薩摩藩の他の地域の一向宗とは異なり、片浦の浦人たちは水主として藩船に乗り、江戸や大坂に出かけることが多かった事から直接中央と結びついていたと言うことである。ちなみに片浦仏飯講は、摂津国(大阪西成区)の広教寺の門徒に属していたと伝えられている。そして当時の航路は、鹿児島港を出て野間岬を回り、川内の久見崎港、阿久根の脇本港を経て天草近海を通り五島に停泊し、平戸から瀬戸内海に入るのが普通であった。

 私は、片浦を過ぎ湾の奥まった所に位置する仁王崎へと向かった。
仁王崎は、伝説によると火闌降命(海幸彦)と 彦火々出見尊(山幸彦)の争いが起こった地であり、仁王崎は二皇崎の意味でもあると言われている。
それは、海幸彦と山幸彦が、それぞれ生業の道具である釣り針と弓矢を交換することから始まる神話であるが、古くから海洋と深く係わって来た、この地方にふさわしい神話と言える。

小浦の町並みより片浦湾を望む
仁王崎漁港には、日の丸や大漁旗を掲げた漁船が停泊し、近くの公園では祭りが行われている様であった。入口には、第十三回マリンランド笠沙フェスタと書かれてあり、ハンヤ節競演会などが開かれており、まさに大漁旗を掲げて祝う、農村で言うところの秋の収穫祭(ホゼ祭り)であろうか?
私は、さらに小浦の町並みを通り抜け、小浦湾を眺めながら海岸線を走った。


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2018年05月20日