★思い出の紀行<1韓国旅行1

現在、日本と韓国との関係は、あまり良い関係とは言われないが
18年前は、どうだったか? 旅行記を読み返してみようと思ってます。

韓 国 旅 行

 1999年末にさしかかろうとする十二月、韓国へ行く機会を得た。
予定していた訳ではなかったが、たまたまツアーに誘われての参加である。
一昨年、昨年と海外旅行したが、年が押し迫っての旅行は初めてである。まあ、二泊三日と言うことで0Kしたが、いざ行こうとする時、日本に一番近い国でありながら何も知らないことに気が付いた。

私の韓国に対する知識と言うものは、まったくお粗末と言う一言に尽きる。イメージとしては、秀吉の朝鮮出兵、百済と言う国、元寇、「釜山港へ帰れ」の歌謡曲、チヨーヨンピル・・・・・
無理に思い出しても、焼き肉、キムチ、お隣の北朝鮮の「テポドン」事件、これぐらいの知識である。このままの状況での観光旅行もいいが、この機会に少し韓国と言う国を勉強しようと思い立ち何冊かの本を手にした。
我々の世代の学校における歴史教育では、特に近代史は通り一辺的であり、試験に出ることもなかった様な気がする。その精でもないが、真にもって私自身の韓国に対する歴史認識の疎を実感することになった。
まさに「ぬるま湯」につかっての戦後を過ごして来たと言う感がする。

 出発の朝、十二月三日金曜日の朝刊の一面を飾っていたのは「1992年十一月以来中断していた朝鮮との国交正常化交渉が再開される」のトップニユースである。
日本の敗戦により、北緯38度線で分断された朝鮮半島。同一民族の北と南の軍事境界線、その北部の朝鮮民主主義人民共和国は、戦後五〇年以上経った今でも、その後遺症が続いている。
両国に横たわる
「日本の三十六年間の日韓併合時代による補償問題」
「北朝鮮の食糧危機に対する日本の人道的支援問題」
「新潟県の中学生をはじめとする北朝鮮による日本人拉致疑惑」
「昨年八月の弾道ミサイル・テポドン発射問題」など・・・
にわかに私の中で身近に感じ始めながら、我々七人(男四人、女三人)は、福岡へと高速を走った。ほとんどのメンバーが何らかの形で縁があり面識のある顔ぶれである。楽しい旅になりそうである。

 朝鮮半島の歴史は、古朝鮮時代―三国時代―統一新羅時代―後三国時代―高麗時代―李氏朝鮮時代―近代へと移行する。
紀元前三世紀頃の箕子(きし)朝鮮、紀元前二世紀頃の衛氏(えいし)朝鮮を古朝鮮時代と呼び。四世紀、日本では大和王権が成立する頃、朝鮮半島では高句麗、漢江流域の百済、慶州地方の新羅が台頭する三国時代に突入する。

三国の内、一番軍事的に劣勢であった新羅は、中国の唐と同盟を結ぶことにより、660年百済を、668年には高句麗を滅亡させ676年に三国統一を成し遂げ統一新羅時代が始まる。新羅時代は仏教文化が栄えるなど平和な時代が続いたが、八世紀後期になると政権は揺らぎはじめ、再び地方豪族が割拠し898年に後高句麗、900年に後百済が再び興り後三国時代と呼ばれる時代へと移行する。

 これを統一したのが後高句麗王の部下であった開城の豪族王建である、918年開城を首都とする高麗国をうち建てると新羅、後百済を滅ぼし936年朝鮮半島全域を統一した。この高麗国が韓国の英語名のKOREAのもとになっていると言われている。

高麗は、中国の宋国にならって科挙制を導入し中央集権的官僚国家をめざした。仏教も隆盛を極めた時期でもある。
その後、モンゴル高原の遊牧民を統一したチンギス・ハンが宋を滅ぼし元国を作ると、高麗は蒙古軍の進入を受ける様になり、1259年には元の服属国となつた。元は二度にわたって日本を攻める(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)が失敗すると、その頃から高麗は日本の倭寇(前期倭寇)による度々の侵略略奪に悩まされることになり、その防衛や度重なる飢饉のため次第に財政は貧窮してゆく。(日本では元寇により鎌倉幕府は滅んで行く)。
中国では、元に代わり明国が新しく勃興すると、高麗は国内外ともに混乱をきたし、倭寇討伐で功名をあげた李成桂が、元に代わり明国と手を結ぶことにより王位を略奪し、1392年李氏朝鮮を建国する。
李朝は、首都を 開城より漢陽(または漢城、現在のソウル)に移し、1910年の日本による韓国併合まで500年以上にわたる長期政権を確立した。李朝は、明国にならい両班(ヤンパン)と呼ばれる特権官僚の身分世襲制を取り入れ、儒教(朱子学)を国教とする文治国家をめざした。1446年には訓民正音(ハングル)と言う文字が制定されるなど文化の普及はめざましいものであったが、特権官僚による支配は多くの歪みを生み、次第に私的利害闘争や儒教の党派争いなどを呼び、豊臣秀吉の侵略なども加わって国勢は衰え近代へと突入してゆく。

 我々のツアーは、朝七時に出発して福岡空港へは三時間弱の走行だった。
軽い昼食を済ませると、アジアナ航空(OZ133便)にて十二時五〇分、韓国へと飛び立った。
機内では、韓国製のやや水ぽいビールを飲みながらスチアーデスの美貌に見取れ、舌足らずの縮こまった日本語のアナウンスが、初めての韓国とは言え、私に軽い愛着心さえ起こした。今回の旅行の目的は、写真撮影がメインのテーマであったが・・・
眼下には大海原が続く。やや霞みに隠れた対馬海峡。東シナ海より対馬海峡をすり抜け日本海に流れ込む対馬暖流(黒潮)は、やがて対馬の北で韓国東岸を南下するリマン寒流とぶつかり混じり合い北東へと突き進み山陰、北陸の海岸を洗う。

この海流こそが、古代より大陸や韓国からのポーターの役目を果たして来た。
山口県、萩市の東方の江崎に、通称磁石山と呼ばれる岩山があるそうであるが、南朝鮮を船出して、この山を目指せば寝ていても日本に辿り着くと言われている。
そして、この暖流と寒流は多くの種類の海の幸を人々にもたらした。

 日本に一番近くて遠い国とも言われた韓国は、
カメリアラインのフエリー(博多―釜山間)で約15時間40分。
高速艇(JR九州ビートルⅡ世号)を利用すれば約2時間55分。
空路を利用すれば、福岡空港から釜山の金海空港まで、わずか55分の距離である。
晴れた日には、対馬から朝鮮半島が見えると言う。
この対馬海峡では、有史以前より日韓の多くの歴史や人間ドラマが繰り広げられて来た。
古代における日本への文化移入も、この海峡を渡って来た。そして侵略の歴史も同じ海峡を渡った。
私は、その同じ海峡を上空より眺めている。日韓の歴史を紐とけば・・・
古代においては、倭の国王、卑弥呼が中国の後漢より授かった金印が渡り。
六世紀初めには、百済を通じて日本に仏教が伝来。
七世紀には、百済の要請により日本は、救援水軍を派遣、そして唐、新羅連合軍に白村江の戦いで敗北。また七世紀から始まる遣唐使船の北路にあたる中国へのコースは、朝鮮半島西岸づたいであった。
十三世紀末には、二度にわたる元寇。第一回の文永の役では、来襲したモンゴル人、女真人、漢人の数は合わせて二万人、高麗人六千人の計二万六千人であったと言われ、対馬、壱岐、博多湾西部が戦場となり太宰府まで迫る勢いであった。
第二回の弘安の役では、その兵数は十四万人、四千四百艘の軍船による攻撃であったが暴風雨のため敗走。大半は海の藻屑と消えた。

その内の二,三万人の兵は、日本の捕虜となり博多に連行された。日本人は蒙古、高麗、漢人のうち中国の江南人は殺さなかったと言われている。日本人に助けられた江南人は、モンゴルに滅ぼされた南宋の人達であり、日本人とは交易においてなじみが深く海上貿易の達人であった。
その結果、日本は船の技術や海の道、物産情報などを得て海外へと乗り出して行く。
そして、この元寇こそが倭寇を生んだと言われ、日本の海洋アジアへの進出となって拡大して行くことになる。
十五世紀に入ると、李氏朝鮮との日朝貿易。
十六世紀には、豊臣秀吉による二度の朝鮮侵略。
十七世紀、江戸時代には朝鮮通信史による文化交流。
近代に入ると、日本は鎖国体制の朝鮮に対し開国を強要。日清、日露戦争を通じ、ついに朝鮮を併合し、やがて世界大戦へと戦火は拡大して行く。
まさに悠久の歴史が、日韓の間には刻み込まれている。



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2018年05月23日