★思い出の紀行<2韓国旅行2

 やがて機内アナウンスと共に飛行機は着陸態勢に入る。大陸が見え始め町並みが間近に迫ってくる。フライト時間は、わずか30分であった。
我々は、釜山の北西に位置する金海(キメ)国際空港に着陸した。外気は摂氏十一度と言うことであつた。金海国際空港は、洛東江の下流の二股に分かれる河口の中州に位置し、広々とした平地の金海地方は、古代においては加耶(任那)とも呼ばれており、任那日本府が置かれていたと言われる所である。
タラツプを降り到着ゲートへと歩く。途中、写真を撮ろうとすると監視の男が、遠くからジェスチャーで禁止である旨を伝えてきた。金海空港は、軍の飛行場も兼ねており機密保持のため撮影禁止の場所であった。

韓国は、今でも準戦時体制下にあり徴兵制度のある国である。男性は十八歳になると、陸軍で二十六ヶ月、海軍で三十二ヶ月、空軍で三十五ヶ月の服務期間が定められていると言う。
入国審査を済ませ出口へ向かうと出迎えの女性ガイドが待っていた。私を除く男性メンバーは、面識があるらしく気さくな感じであった。
我々は、両替所でウオン(その日のレートは1,000円が11,005ウォン)に交換を済ませた。日本円を約10倍するとウオンになる。これが使い方の目安になる。桁が多い精か金持ちになった気がしないでもない。
我々は、小型マイクロに乗り込み釜山へと向かった。バスの窓越しより見る金海は広漠とはしていたが、ハングル語で書かれた看板の文字を除けばあまり違和感は感じなかった。
釜山市街までは二十分位であったであろうか?

韓国第二の都市、釜山。人口450万人。市街地は、三方を5~600㍍級の山に囲まれ南海に向かって開けている。
昔より、漁業、海運業で発達して来た港町である。釜山港は、古くは富山浦(フザンポ)と呼ばれていたが、韓国最大の港であり釜山と言う地名は、山の形が鉄釜に似ていることから付けられたと言う。

釜山市街は、山手に向かってマンションが建ち並び、住民は、ほとんどマンション暮らしであると言う。ガイドに聞けば、釜山では木造の建物は建てられないと言うことであった。
洛東江の大橋を渡り、市内観光の最初は龍頭山公園である。
公園は、釜山港の西に位置する小高い丘の一角に広がり、山の形が龍の頭をしていることから名付けられたと言われ、公園内にそびえる釜山タワーは、町のシンボルであり目印にもなっている。
並木づたいの急な坂道を登り詰めると視界は開け、釜山タワーが上空まで延びていた。
1974年に完成したタワーは、高さ118㍍、山の高さを加えると海抜180㍍にもなると言う。なぜこのタワーが建てられたかガイドに聞きそびれたが、テレビ塔なのか、単に展望台なのか、何れにせよ釜山市街が全望できることは、私にとっては有りがたい。
展望台へはエレベーターで登ると、三六〇度の回廊からは眼下に釜山港や二つの橋で繋がれた影島が海上に姿を現していた。

さすがに韓国第二の都市、ビルが隣立し昼の日射しに映え街を白ぽく彩っていた。

影島と朝鮮戦争で犠牲になった国連軍墓地のある南海に突き出た半島が形成する釜山港は、日本に一番近い海の窓口であると共に、数々の歴史の舞台となつた。
秀吉の朝鮮出兵の上陸地も、この釜山港であった。私は、眼下に広がる街並みを見下ろしながら、何拾万人もの将兵たちがひしめき合っていた当時を思い浮かべていた。多くの人命が失われたのであろう。しかし今では、遠い昔の様に街は、すべてを飲み干しエネルギツシユに息づいている様に思えた。

公園の中央には、李舜臣(イスンシン)将軍の銅像が対馬海峡に向かって日本をにらむように立っている。李舜臣は、秀吉の朝鮮侵略の時、日本の水軍を破ったと言われる救国の英雄である。

 秀吉は、はじめは朝鮮侵略の意図はなかったと言われている。あくまでも明国の征伐が当初の目的であり、その道案内を朝鮮に命じたにすぎないと言われている。朝鮮は、これを拒否した。
当時、世界は大航海時代を迎え、スペインが動けば世界が震えると言うスペイン優位の時代風潮であり、ポルトガルを併合したスペインは、マニラを基地としてアジア進出に乗り出す時期であった。

一方、日本の統一を成し遂げた秀吉は、海外発展政策を積極的に打ち出し、その構想は中国はおろか、はるか天竺(インド)までを含む東アジア全域に、一大帝国を築き上げようとしていた。そして、天皇を北京に迎え自らは寧波(ニツポー)に身を置き、東アジア全土を支配しようとしていた。
秀吉は、朝鮮出兵に先立ちインドのゴアのポルトガル総督、マニラのスペイン総督、大琉球(沖縄)、小琉球(台湾)に服属するよう書状を送っている。その内容は「予は懐胎の初め慈母日輪の胎中に入るを夢む」すなわち自分は太陽の子なる故、諸国はことごとく予の門に来って屈服せよと言うことである。
そして、ついに秀吉自ら名護屋(佐賀県)に大本営を構え、文禄元年(1592年)に15万の兵を朝鮮半島に派遣する。朝鮮では、これを壬辰(じんしん)の倭乱と呼ぶ。先陣を切った秀吉の武将、小西行長等は、釜山に上陸。鉄砲を装備した日本軍は、わずか二十日余りで東莱城、梁山、密陽、尚州へと突き進み漢城(ソウル)を奪取、その後、平壌を占領している。
一方、咸鏡道方面(朝鮮半島北東部)への先陣を切った加藤清正等は、釜山に上陸、彦陽、慶州をおとし入れ漢江を渡って漢城に至り、それから東進して北咸鏡道に向かい永興、会寧まで至っている。
李朝より救援要請を受けた明帝国は、軍隊を派遣しその連合軍は平壌で日本軍を破り、漢城(ソウル)奪回を目指したが、その直前の碧蹄館で破れると、戦局はそのまま膠着状態に陥った。膠着状態の主な原因は、李朝の水軍、李舜臣将軍率いる独特の戦艦による統営沖の戦いで日本軍が敗れたためである。その戦艦は「亀甲船」と呼ばれ、その構造は、船の上部を厚板で亀甲状に張り、その上にはハリネズミ状の尖った鉄を埋め込んで敵兵の侵入を防いだものだった。
そのため日本軍は制海権を失い、弾薬、兵糧の海上補給が困難になった。兵糧に貧窮した日本軍は、現地で略奪を行い、そのためかえって朝鮮農民の恨みを飼いゲリラ部隊が各地に蜂起し苦戦を強いられた。
その後、現地の明軍と日本軍との間で講和が結ばれることになるが、強気の秀吉は自分の講和条件がほとんど受け入れられていない事に憤慨(戦況認識の甘い秀吉の講和条件は、現地で直接交渉に当たった先陣の大将、小西行長と明の講和使、沈惟敬によって勝手に訂正されたと言われている)し慶長二年(1597年)秀吉は、再度14万の軍勢を朝鮮に出兵させる。この戦いを韓国では、丁酉(ていゆう)の倭乱と呼ぶ。

しかしながら、この遠征では日本軍の軍規は緩み、朝鮮の民衆もゲリラ戦で対抗し、翌年、慶長三年(1598年八月)秀吉が六十三歳で伏見城で没すると戦果の上がらないまま十月には撤退することになった。
撤退命令は密かに朝鮮東部の蔚山の加藤清正、南部の泗川にいた島津義弘、そして泗川のさらに西の順天にいた小西行長に伝えられたが、小西行長は、明の水軍や朝鮮の李舜臣将軍によって帰路を阻まれた。釜山の南西に位置する巨済島に集結していた島津義弘等は、小西行長救助のため再び順天に向かい露梁海峡の海戦で明、朝鮮の水軍の李舜臣を破り、行長は無事引き上げに成功した。釜山に集結した日本軍は、その年の暮れ博多に帰還し秀吉の朝鮮出兵は終わった。

この露梁海峡の戦いで、韓国救国の武将、李舜臣は敵の流れ弾にあたり戦死した。
李舜臣の位牌は、現在、巨済島の西方にある統営(昔は忠武市と呼ばれていた)に安置されている。韓国人は、いまもつて「秀吉の朝鮮侵略」を口を極めて非難すると言われている。

龍頭山公園は、今では老人たちの憩いの場になっており、道路沿いのベンチには多くの人達が集まり、のんびりと時間を費やしている様であった。
李舜臣の銅像の周りには、平和の象徴である鳩が飛び交い平和の行く末を見守っている様に私には思えた。


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2018年05月24日