★思い出の紀行(1999年7月)<05 坊津紀行・一乗院へ1


私は、町並みに入るとまず一乗院に向かった。
坊津の歴史は、すなわち一乗院の歴史そのものであり、一乗院あっての坊津であるとも言われている。
一乗院は、今を去る千四百年以上前、日本にようやく大和政権が成立し大陸より仏教が伝来(583年)した、
のち四十五年後、すなわち敏達天皇十二年(583年)百済国(南鮮)の傑僧日羅の創建とされている。
上の防、中の防、下の防(現在の下浜)の三カ所に坊舎を建て、日羅(にちら)みずから阿弥陀像三体を刻み安置し龍厳寺と称した。

※日羅(にちら、? - 583年12月)は、6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人。 父は火(肥後国)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登(ゆげいべのありしと)。


 その後、敏達天皇、推古天皇の御願所となったが、以来栄枯盛衰を繰り返していた。
平安時代の末期には、崇徳天皇の長承二年(1133年)鳥羽上皇が院宣を下し紀州(和歌山県)根来寺の別院とし真言宗西海の本寺となる。

上皇の御願所であり如意珠山の勅号をうける。従つて、平安末期には西国の名高い巨刹として栄えた。

さらに鎌倉時代を経て南北朝の時代(南朝方の後醍醐天皇の吉野朝廷と北朝方、光明天皇を擁立する足利尊氏の京都朝廷との対立)に入ると日野少尉良成が、しばらく衰えていた寺院を島津氏の協力のもと再興し中興の祖となつた。

良成は、父(罪を得て駕籠、現在の枕崎の硫黄崎、現在の小湊地区に流されていた日野中納言某)の身を案じて薩摩に下って来た人物で、

そのまま坊津にとどまり、やがて発心して坊津で出家し京都の仁和寺で真言宗広沢派の真言秘法の印可を得て成円法師といった人物である。

それ以来、一乗院は京都の仁和寺の末寺として代々真言密教を継ぐことになり、すぐれた僧侶を出した。特に第四世頼俊、第六世頼政、第八世頼忠は、傑出の僧侶であり日秀上人も加わり名僧が続出している。

良成の再興にあたって、当時の藩主、島津氏久(第6代)は寺領として三二六〇町を寄進している。
更に、天文十五年(1545年)後奈良天皇の勅願寺となり「西海金剛寺」の勅額を受ける。金剛峰寺は高野山の寺号であり、寺号を頂くことは特別の栄光であった。

一乗院は、正式には「西海金剛峰如意珠山龍厳寺一乗院」と言う。
以後、歴代の住持たちによって数多くの塔舎などが建てられたが、坊津は台風などの災害も多く、その都度島津家の庇護を受けながらも県下に四十七寺の末寺を持つ大寺であった。

おおまかに資料を拾ってみても、実に悠久の歴史に彩られた寺院である。

 一乗院跡は、坊郵便局を過ぎるとすぐに国道から山手に200㍍上った所にあると言うことであった。車が交差出来ないほど狭い道である。私は、国道脇の空き地に車を停め歩いて上がることにした。

右手の奥の院川に沿って上ってゆくと途中に昔岩間より湧き水が湧いていた硯川があった。坊津に配流された近衛信輔公や島津貴久、義久公が幼少の頃、一乗院に修学の際、硯水に使われたと記されていた。

明治の初めまでは存在していたと言う西海の巨刹!
ああ、私はこの目で一度見てみたかった。
何だったんだろう。明治初めの俗に言う「寺こわし」とは、歴史の流れとは言え寂しく胸が痛い思いがする。今は、そのかけらを拾い集め当時を忍ぶことしか出来ないとは!


その痛々しい傷跡が、正門の左手にあった。胴体が折れ、一体は顔の目鼻立ちも分からない。片手も途中からもぎ取られている仁王像が、本殿のあった方向に向かってクロツグの木の下で黙して語らず、ただ踏ん張っている様であった。

この仁王像は、大永二年(1522年)一乗院の当時の住職(第七世頼全)が山門を建てた時に安置したもので、向かって左が密迹(みつしゃく)で右が那羅延(なちえん)である。密迹は口を閉じて吽を那羅延は口を開いて阿を表している。すなわち、この二文字が万物の初めと終わりを象徴し、一体になることを表わす。
明治二年の廃仏毀釈の時に、門前のやぶに捨てられていたものを後に門前の青年たちが担ぎ上げて現在の場所に据えたものであった。



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2018年05月01日