★思い出の紀行(1999年7月)<06 坊津紀行・一乗院へ2

そもそも廃仏毀釈とは?

 日本に仏教が伝来してから、この外来の宗教と日本古来の神道とを調和させるために、「仏が本体で、神は仏が仮にその姿あらわしたものである。」と言う説が発展していた。

その後、神道の思想が神仏相並んで信仰界を支配する神仏混淆の世の中が徳川時代の末期までつづく、従って寺には境内に神社を設けて鎮守とし、神社には別当寺を設けて神事も社僧が司るのが常であった。
神社も権現や天王などの仏語をもって神号とするものが多く、また仏像をもつて神体とした神社が多かった。
徳川時代になって幕府が切支丹禁制のため仏教を利用したため神社における僧侶の地位が益々強くなっていたが、漢学が盛んになるにつれ漢学者の中から排仏論が起こり、また、国学がおこるにつれ復古神道がさけばれる様になり排仏の傾向がいよいよ強くなった。

 薩摩藩においては、復古神道を大いに取り入れ、すでに藩主斉彬においては、あらゆる梵鐘を撤廃して武器製造に充てようとしていた。
斉彬の死去により全般的には実現するには至らなかったが、この時、坊津の栄松山興禅寺の釣り鐘は召し上げられ鹿児島で大砲になった。
その後、王政復古がなり明治政府は、明治元年神仏分離令を発令。廃仏毀釈においては維新政府も実行を躊躇したとも言われ、薩摩藩においては廃仏は明治二年に断行され同年中に終わったが、それから明治九年排仏が解禁されるまで藩内には一軒の寺院も残さず一人の僧侶もその姿を見ることはなかった。

 

はじめは、一乗院やその他島津氏に由緒ある寺院は残されるであろうと思われていたが、ついに千四百年以上も法灯をかかげてきた勅願寺たる西海の名刹も排寺に追いやられた。

その処理については、資料によると、
寺院の建物は解体され、僧侶は還俗して故郷に帰され、あらゆる仏像、位牌、仏具などは院内の二つの井戸に投げ込まれ、そのため一杯になったと言う。仁王像は壊して門前にうち捨てられた。仏画や絵画類のいくらかは坊,泊の豪商たちに常備隊費用の担保の名目で分け与え、寺領はすべて門前の住民に耕作地として分け与えた。一乗院の遺材は後に坊泊小学校の建築材として使われた。

一乗院の梵鐘は、南方郷の役所(枕崎)へ移され時鐘とした。すべての梵鐘は鋳つぶして大砲や弾丸にすることになっていたが、時鐘だけは残すことになっていたのでこの処理になったが、のちに明治十年、西南の役の時、薩軍の砲弾とするため私学校に送られた。

この様に、薩摩藩における廃仏毀釈は徹底的に行われ廃寺になった寺院千六百十六寺、還俗した僧侶二千九百六十六名、その内の三分の一は兵士となつた。寺領の没収による財源は軍事費にまわすと言う政治的、経済的理由があったと言われている。

しかし、いずれにせよ国宝級の貴重な文化財や宝物などが、数多く失われたことや、精神的拠り所を失った事は事実である。
いつの時代にも起こりうる事ではあるが、返す返す残念な思いがする。
当時の一乗院の様子は、三国名勝図絵に見るだけである。

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2018年05月02日