★思い出の紀行(1999年7月)<07 坊津紀行・上人墓地へ

私は、一乗院跡の案内掲示板の順路に従った。正門の右手には、頌徳碑が立っている。坊の飯田備前守西村と鳥原宗安の業績をたたえて建てられた碑である。

飯田備前は、日本における最初の海事法(廻船式目三十一条)草案のために鎌倉執権北条義時に召されて、兵庫の辻村新兵衛、土佐の篠原孫右衛門と共に日本海事法の祖となった人であると記されている。
また、鳥原宗安は、坊の浜の湾に向かって小さく突き出た八坂神社の社家であり、豊臣秀吉の朝鮮の役で人質となって日本に連れられて来ていた中国の茅国科(ぼうこっか)を後に送還する大任を命じられ、
慶長五年(1600年)坊から北京に送り届け対明貿易再開に努力した人で、島津家の家臣であると共に三州内屈指の海運業兼海商であり、呂宋などの海外貿易に活躍した人である。


 運動場を右手に迂回し、石積みの階段を上がると校舎の正面に三個の石が列べられている。これは校舎を建てる時に発掘された一乗院の基礎石と言うことであり、約六十㌢四方の大きさである。また、校舎の裏手には、発掘当時の状態が遺構として保存されていた。

小学校の北の裏手の丘には墓地があり、地元では四角墓と呼ばれ上人墓地として県指定の史跡になっている。

成円法師(日野少尉良成)が寺院を再興して以来、廃仏毀釈までの五百十二年にわたる住職たちの墓と言うことであり、現存するのはわずかだが四角形に囲まれた石棺で石板には上人名が刻まれている。

「上人」「僧都」の称号は、当時中央でしか使用を許されていなかつたことからして、いかに一乗院の格式が高かったかを表している。墓石に使った石板は、下の奥の院川から採つたものと伝えられ、この四角墓と言う形式は他に例がなく珍しいと言うことであった。

苔むした石棺は、一乗院跡を静かに見下ろし隆盛を誇った当時を懐かしんでいる様であり、不惜身命!求道しつづけた上人たちの歴史を物語っていた。

上人墓地の上には、海岸線より鳥越部落につながる大きな新道が整備されていた。
この近くに一乗院を創設した日羅の座禅石があると言うことで探してみたが見つからなかった。地元の人に聞いてみたが、分からないと言うことであつた。

史跡が多すぎてと言うより、史跡の中で生まれ育つてきた彼らには、あまり重要なことではないのかもしれないが・・・・・・。

一乗院は、藩政時代は寺格も高く、かなりの寺領を有し門前町を形成していた。一乗院跡地の東方の山手は鳥越と言う地名になっているが、当時、寺門前と呼ばれ武士や百姓や浦浜人、野町人(農村の町人)などと同じように、一種の身分の人たちであった。寺領を耕作したり寺の雑務や商売を行ったりしていた。

一乗院の繁栄の時から由緒ある家筋の人々が寺門前として住みつき現在に至っている。萩原、安東、末野、青野、鮫島、折田、有馬、宮下、長里、松下姓の人達の先祖である。

坊津では、優れた者は医者になるか僧侶になって身を立てる者が多かったが、当時の子弟たちは一乗院に上がり立派な僧侶になるのが望みであり、貴重な書籍や宝物を有する一乗院は、末寺や各郷から集まって来る人々の学問修行の道場でもあった。

私は、上人墓地の丘に立ち、眼下に入江を見下ろしながら、明治の初めまでは朝な夕な唱名の声や梵鐘が静かに西海に鳴り響いていたであろう情景を思い浮かべていた。

意ならずして廃寺になつたとは言え、現在二十一世紀に向かって大きく育とうとする子供たちの教育の場に姿を変えていることが、せめてもの救いであり、時折り吹き上げてくる潮風の心地よさに、しばらく時を過ごし一乗院をあとにした。



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2018年05月03日