★思い出の紀行(坊津)<08 龍厳寺、近衛屋敷へ

 国道226号線にもどると近衛屋敷跡へ向かった。
屋敷跡は、国道を少し戻った中坊バス停の近く、坊郵便局に隣接する所に有り、道路より一段高いこぢんまりとした所にあつた。坊津の家並みがそうであるように、総じて敷地は狭く、箱庭程度を作るのが精一杯の大きさである。

地形的に傾斜地を利用するしかないのであろうけれども、石を積み重ねて平坦な土地を
確保し、人家は山手に向かって登るように切り開かれている。
現在は屋敷は残っていない、敷地の大きさから見て、せいぜい十二,三坪の家が建っていたのであろう。近衛藤と呼ばれ、手植えされたと言われる藤と碑が立っているだけである。
さらに屋敷より一段高い敷地は、現在、龍厳寺になっている。

一乗院は「寺こわし」で廃寺となったとは言え、久志地区や秋目地区の人々の中では寺格の高い一乗院の密教よりは一向宗(かくれ念仏)が盛んに行われていた。

「念仏を唱えれば、成仏できる」と言う一向宗は、一夜にして寒村化した「唐物崩れ」で漁業への転換を余儀なくされた人々にとっては、身近で日々の生活に馴染みやすかったのかも知れない。
しかし、薩摩藩においては一向宗は、禁制であったため人々は「かくれ念仏」として根強く信仰されていた。
一乗院の「寺こわし」も、これらの人々には「かくれ念仏」のさらなる禁圧に受け止められたようであるが、廃仏毀釈以来わずか七年後(明治九年)明治政府は、信仰自由令(切支丹解禁に至っては明治六年)を発令。

満を持した様に、坊津では一向宗の布教が盛んになり、色々な説教所を経たのち現在の場所に説教所が作られた。

そして、歴史ある一乗院龍厳寺の復興の意味も含めて説教所を龍厳寺と命名し現在に至っている。これがこの寺の由来である。本殿の左手には、厚信の門徒たちの寄贈により、当時の一乗院の鬼瓦が復元され設置されている。

 

それにしても、龍厳寺より見下ろす近衛屋敷跡は狭い。配流期間二年余りを坊津で過ごした近衛信輔にとって、京都の生活にくらべあまりにもひなびた生活であったろうことは推察できる。
時に信輔、三十歳だったと言うことであるが、流人とは言え元左大臣である。
その生活の有様は「三藐院記(さんみゃくいんき)」に記されていると言うことであるが、気のふさぐ日が多かったみたいである。

敷地跡には、
 「左大臣、近衛信輔公は豊臣秀吉の怒りにふれて文禄三年五月二十一日坊津に配流され、翌年八月二十八日までこの屋敷に住まわれていた。
当時公は三十歳で書画や和歌に長じ優れた京文化をもたらした。公のお手植と伝えられるこの藤は近衛藤と呼ばれている。なお、坊泊戸主会は大正十四年八月二十五日(1925年)関白准三宮近衛公謫居址の記念碑を建立。題字は、裔子近衛文麿の筆蹟である。」と記されている。

 信輔の配流の原因については、一説によると、天下統一を果たした秀吉にとって、次に執着したものは官位の取得だつた。この官位の取得に際してのトラブルだったと言う説ある。流人とは言え名門の出である。

坊津は本来早くから近衛家の荘園であった地であり、また島津家とのつながりも深かったことから、この地が選ばれたのではないかと言われいる。
島津家においても流人としての扱いではなく、色々と信輔をなごませるために接待や歌会を開いている。

滞在中は、世をはばかり岡佐兵衛と名のっていたが、和歌,絵画はもちろんのこと書においては近衛流の元祖であつた。
信輔の坊津に残したものは数多く、坊津の勝景を詠った「坊津八景」や鹿児島の代表的民謡である「はんや節」も信輔の作と言われている。「ハンヨーイ、ハンヨーイ、ハンヨイサーサー」のかけ声も高らかにテンポのよい民謡であり、ハンヨーイは繁栄から来たものと言うことで、活力に満ちた感じがする。

また、坊津は古くから海路により京とのつながりも多かったとは言え、信輔のもたらした京文化も多かったと言える。

 

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2018年05月04日