★思い出の紀行(坊津)<09 下浜、坊の浜へ

 坊郵便局前から海岸線沿いに道が下っている。奥の院川が入江に注ぎ込む所は狭い湾になっている。


このあたりを深浦と言い、昔、造船場があったと言うことである。また深浦に接するように島状に突きだした所を中島と呼び、昔は古松が茂っており、幕末の頃には砲台が据えられていた場所である。今でも湾づたいに砲台跡の石垣が残っていた。また、ここは島津斉彬公が西洋式白糖の製造工場を作った所でもあり白糖方とも呼ばれていた。

 深浦夜雨  舟とめて苔もる露は深浦の音もなぎさの夜の雨かな。
 中島晴嵐  松原やふもとにつづく中島の嵐ははるる峰の白雲。

と、このあたりを近衛信輔は「坊津八景」に詠っている。

 

私は、「ふかうら橋」を渡り、中島の舟つき場に車を乗り入れてみた。小舟がコンクリートで作られたスロープに整然とつながれ、昼下がりの静かな風景を作っていた。
坊津に来て思うことだが、日中は、あまり人を見かけないことだ。
漁業を生業とする人々にとっては、日中は骨休めの時間なのだろうか、入江の水面のごとく中島は静まり返っていた。

 舟つき場の目前には、茜色の八坂神社の社殿が湾にせり出すように姿を現し、裏手の山の深緑に映え、場違いと思えるほどきわだって見えている。
私は、朝方より何も食してない、しかしながら店らしき所がない。まったく観光擦れしてない小さな漁村と言う感じである。

自然の持つサイクルだけが、ここに住む人々の生活規範なのだろう。呉越同舟ではないが、農耕民族のような富を形成することにだけエネルギーを費やし、綱引きしている民族ではないのかも知れない。
板子一枚下は地獄。運命共同体であるが故の厳しさといたわり合いを育んできたのだろう。
閑散とした風景の中にも、芯のぶれない海の男のひややかな熱情を感じる。

 

 中島をあとにし人家の建ち並ぶまっすぐな道を走ると、突き当たった正面のガケ地に、小さな神社があった。船戸神社と書かれている。航海の交通安全の神として猿田彦命が祀られていた。
神社の左手は、下浜の滝下の井戸から湧き上がる水を生活用水とするために、石をくり貫いて作ったと言われる石管があったと言うことであつたが、今は整備されていて残っていない。道の奥まった所に井戸跡が残っているだけであった。

また、山手への道は、狭く急な階段やスロープになっており、道路脇には、小さな古めいた供養塔がいくつか立っていた。

その一つに、公民館の上の山手の道端に「アカンコ供養塔(閼伽壺)」と言うのがあった。年代的にも古いもので塔の種子凡字は虚空蔵菩薩であり大永六年十二月三日(1526年)の年号が刻まれていると言うことで、坊津が海外貿易で栄えた頃、これに祈願して出帆したのではないかと伝えられている。
当時は、坊津は倭寇の大根拠地であつたことからして、倭寇に関係が深いのではないかと言われている。

倭寇が歴史上に登場するのは、十四世紀の中頃からであり南北朝の時代である。
もともとは、二度の元寇(蒙古襲来)、文永の役(1274年)弘安の役(1281年)が倭寇を生んだと言われ、その意味する所から歴史的に前期と後期に分けられている。

前期倭寇の目的は、主に食糧と人民の略奪であり、八幡大菩薩を旗印に集団を組み、バハン船と呼ばれ、人々は名前を聞くだけで震え上がるほどだつたと言われ、主に朝鮮半島や中国沿岸を荒らし回り、根拠地は北九州、対馬、壱岐、松浦、瀬戸内海などであった。

後期倭寇は、十六世紀、応仁の乱以後の時代であり、密貿易が主な目的であつた。東シナ海沿岸、東南アジア方面が主な進路であり、その根拠地は坊津、五島、松浦が中心で薩摩、肥後、長門の人が最も多く、他に大隅、日向、筑前、筑後、豊前、泉州堺の人々があとに従った。

坊津は、南方方面における倭寇の最大根拠地であつた。
しかし、後期倭寇における実態は、倭人は一~二割で大部分は中国人であった。その頭目は、王直であり、中国人でありながら松浦に居を構えて、当時二千人余りを従え倭人と組んで中国沿岸を荒らし回ったと言われている。

その姿は、天をおおう山の如く、その帆は空に浮かぶ雲の如くであったと伝えられている。王直は、天文十二年(1543年)八月、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し鉄砲を伝えた際、通訳をした明人五峰である。

また、王直と行動した徐惟学の甥の徐海と手を組んで杭州一帯を荒らし回った辛五郎は薩摩人であり、薩摩藩における三州沿岸は倭寇の巣窟であつたと言われている。
倭寇は、三,四,五月の春と、九,十月の秋の季節風に乗り行動し、たどり着いた所が略奪の場所であり、当時の明国は倭寇と秀吉の朝鮮征伐の防御のため疲れ果て亡んだと言われている。


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2018年05月05日