★思い出の紀行(坊津)<10 密貿易屋敷跡(倉浜荘)

 坊の公民館を過ぎ、海岸沿いを行くと右手に湾に100㍍程突きだした鶴が崎がある。
「坊津八景」

 鶴崎暮雪 鶴崎や松の梢も白妙に
       ときわの色も雪の夕ぐれ

の場所であり、突端に八坂神社(祇園神社)がある。古くから坊一円の産土神として信仰され、代々中世、近世の海商鳥原家が社掌である。
祭神は、素戔嗚尊、稲田姫、八王子の三柱で御神体は鏡である。社殿は茜色に彩られ、神殿の天幕には、鳥原家の巴紋が飾られていた。右回転の三つ巴紋はせめぎ合って円を成し、波濤を乗り越えて通商した人々の力強さを感じさせる。

本祭の十月十五日のほぜ祭りは、坊津最大の祭りであり「十二冠女(十二歳になる十二人の乙女たちが頭に賽銭箱を乗せて行列する)」などは、京の祇園祭りを思わせるほど優雅であると言われている。


 坊津は、江戸時代には密貿易港として栄えた町である。
江戸時代に入ると幕府は、切支丹禁令と鎖国令を発令し、海外との貿易を長崎一港に限定して幕府の管理下に置いた。
古来より自由な貿易を行ってきた坊津は、必然的に密貿易に移行することになり、薩摩藩においても、切支丹禁令に対しては徹底的に取締まりを行ったものの、中国との貿易については形式的な取締まりに過ぎず、坊津では、抜荷や沖買、琉球や中国へ船を出す抜船など半ば公然と密貿易が行われていた。

「坊津千軒甍のまちも出船千艘の帆にかくる」と歌われたにぎわいは、鎖国令下においても衰えることなく、当時七〇艘もの海外交易用の船があつたと言われている。
一度の航海で蔵が建つと言われる程であり、多くの豪商たちが生まれた。

しかしながら、鎖国令から約八〇年のち、大阪における大抜荷事件をきっかけに幕府の取締まりはいよいよ厳しくなり、薩摩藩においても幕府に追従するように取締まりを強化し、抜荷に対する一大取締まりが行われた。これが坊津を一夜にして寒村に追いやった「亨保の唐物崩れ」であり、坊津の商家は婦女子だけの町に変わり果ててゆく、

「たのめども海人の子だに見えぬかな、いかがはすべき唐の港は」と歌われる程であつた。

この取締まりをいち早く知った海商たちや海に出ていた船は、クモの子を散らすように隠岐、朝鮮、琉球方面に逃亡し、終生帰ることはなかったと言われている。そして没落して行った。残された子孫たちは、細々ながら漁業へと生業を変えて行くことになる。 

倉浜と呼ばれている地区がある。この地区は、当時の豪商たちの倉が建ち並んでいたことから、その様に呼ばれるようになつた地名であるが、その一角に「倉浜莊」はある。

幕末まで海商として栄えた森吉兵衛の屋敷であり、密貿易屋敷跡とも呼ばれている。
隠し部屋があり、取り外しの出来る階段、船底型の天井、二階の襖を開けると一階の部屋や玄関が見下ろせると言う造りは、忍者屋敷のようであると言われており、

梅崎春生の「幻化」の主人公五郎も、この部屋に宿泊しその時の様子を書いている。
「倉浜莊」は、現在も民宿の看板を掲げてはいるが、雨戸は閉じられ営業している様子ではなかった。また、このあたりから昔の豪商たちの倉や屋敷が建ち並び山手に向かって石畳の坂道が続いていたと言われ、今でも石畳はあちこちで蛇行しながら山手へ登っている。


 私は、細い石畳の坂道を登り、そしてまた海岸づたいの道を歩いた。道は湾に沿って歪曲し、道の行き止まった所は坊泊漁港になつていた。そこは半島の山並みが入江に深く突き刺さり、この湾の水深を確保しているようであった。
そして半島の沖合いには網代浜海水浴場があり、坊泊漁港は海水浴場への連絡船の発着所になっていた。
陸路では行けない海水浴場。昔、網代浜は抜荷が頻繁に行われた場所で、奇岩として有名な双剣石がある場所である。
坊泊漁港の西方の高台は、一帯が墓地になっており、昔、栄松山興禅寺があった場所である。近衛信輔は「坊津八景」の中で、この場所を

 松山晩鐘 今日もはや暮にかたむく松山の鐘のひびきにいそぐ里人。

と詠っている。
現在は、墓地の中に数軒の人家があり、寺跡と思われる石積みが残っているだけである。入江を見下ろす木陰で休んでいる老人に聞いてみたが、はっきりとした興禅寺跡は分からなかつた。
ただ、明全和尚の墓が、急な坂道の行き止まった所にあった。
明全和尚は、日本曹洞宗の開祖道元禅師の師であり、師弟共々当時の中国の宋をめざし興禅寺に滞在していが、長い船待ちの間に病死したと言われ、興禅寺に位牌を安置し石塔が建てられたと伝えられている。
従来、日本三津の第一港としての坊津は、入宋、入明の際の出帆地であり、多くの僧や文化人が行き交い、まさに日本における文化の西南端の受け入れ口であった。



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2018年05月06日