★思い出の紀行(坊津)<12泊浦へ


 峰ケ崎を過ぎ、荒所浦を左手に見下ろしながら坂道を下ると、小さく突き出た御崎(宮崎)がある。その御崎越しに泊漁港は開けていた。

白塗りの漁船に混じって、対岸には色鮮やかな遣唐使船を模したグラスボートが停泊していた。
宮崎には九玉神社があり、航海安全の神である猿田彦大神が祀られていたが、鳥居の脇に文豪谷崎潤一郎の「台所太平記」の碑が建てられている。
この小説は、泊出身のお手伝いさんをモデルにして書かれたもので、谷崎家では、昭和十一年頃から泊出身のお手伝いさんが十数名仕えていたと言う。素朴で明朗で料理がうまく屈託のない南国の女性、その一人が結婚するに際して詠んだ歌が、

「さつま潟とまりの浜の乙女子は嫁ぎてもゆくか伊豆の猛夫に 潤一郎」と碑に刻まれている。
 夕暮れせまる泊港。私は、宮崎の先端より湾の中央までせり出した堤防を夕照に誘われる様に歩いた。波打ち際の巨大なテトラポットの上に腰を据え、東シナ海に沈む夕日を眺めていた。

港に出入りする小型船のエンジンの音、漁に出かける船、帰り来る船がきらめく海面にゆるやかな軌跡を残し、やがて小さく消えて行く。
山手からの浜風が、汗でベと付き火照った体を、ゆつくりと冷ますしてゆく。足下でブツブツと音をたてる波音を聞きながら、帰る時間さえどうでも良くなっていた。


やがて、沖合いは黄金色のキラメキに染まり西方浄土をかもし出している様であった。
そのまぶしさは、私の無明の淵を照らし至福へと導いてくれる様に思えた。
思えば遠くへ来たものだ。そんな思いを抱きながらも、いつまでもキラメク海を眺めながら漂っていたかった。

 坊津は、古代においては遣唐船の入唐道であり、唐文化摂取のため唐の都、長安をめざし多くの使節や留学僧が遣唐船に乗り込んだ。

遣唐船は、西暦630年を第一回として894年(寛平六年)菅原道真の意見で廃止になるまで、飛鳥時代から奈良、平安時代の約二六〇年間、任命十八回入唐十五回を数えた。航路は壱岐―対馬―朝鮮半島西岸―山東半島の北路と五島列島から東シナ海を直接横断する南路。そして南西諸島を飛び石とし東シナ海の最も狭くなっている所を横断する南島路の三っの航路があった。

坊津は、南島路にあたり遣唐船の中期に利用された。
初期の遣唐船は、一団が二隻で形成され、一隻の乗組員は約百二十人ほどであった。
船の大きさは長さ四十五㍍巾三㍍と推定されている。中期頃からは、四隻となり約四百人前後が四隻に分乗し四船と呼ばれる様になった。

当時は、航海術も造船も幼稚であり、気象や季節風に対する知識もなく、まったくの盲目航海であり、しばしば遭難し遣唐船がそろって帰国することはまれであった。
遣唐使に任ぜられることは、東シナ海(死の海)に向かって四船(死の船)に乗り込むことであり死を覚悟しての航海であった。

遣唐使が入唐したのは十五回、船の総数四十余隻、その中で十二隻が遭難。つまり出航した三分の一が遭難したことになる。そして何百何千という人々が南海に沈んだのである。

第二回653年に派遣された吉士長丹の一行は、初めて南路をとって遭難し、第四回659年の坂合部石布らは南海に漂流して海賊に殺された。また第十回733年の遣唐使は、翌年帰国の途についたが船団の四隻のうち第四船は行方不明となり、第三船は遠く南の崑崙島(ベトナムの南端)に漂着し、百十五人中生存者はわずか四名であったと言われている。

 泊浦は、坊浦に比べてゆったりとした感じがする。山並みが緩やか精であろうか、
私は、国道より左手の遣唐使船の発着所に向かった。
白と朱色に塗り分けられたこぢんまりとしたグラスボートは、遣唐船気分を味わわせてくれると言うことであった。
一日、四回運行、所要時間一時間。私が発着所に着いた時には、昼の最初の運航時間であった。

しかし、あたりには乗船客が居る様子ではない。大人千四百円の料金を支払い乗船したが、結局、私ひとりであった。
船長と乗務員一人、私ひとりのために船を出させるのも気の毒な気がしたが・・・
船長が、沖は少し荒れているが大丈夫か? と聞く。
船酔いは経験がないと言うより、このクラスの小さな船に乗るのは初めてである。「大丈夫か?」と聞かれても、船酔いがどう言う状態か分からない。結局「大丈夫だと思います」と答えたが、かえって大丈夫かと聞かれると心配になる。

私は、前夜の深酒で酔いは酔いでも二日酔い気味である。まあ所要時間一時間と言うことで、すぐに過ぎると思った。
私の遠い先祖が、波濤を乗り越え南海に漕ぎ出したとすれば、少なくとも私のDNAの中に、その痕跡があるだろうと思った。「そんな男が船酔いするはずがない」とあらためて自分に言い聞かせるのも滑稽な気がした。
乗船名簿に名前と住所を記入する。今日の乗船客は熊本からの家族連れが一組みたいであった。

船内は、中央に二カ所二㍍四方ののぞき口があり、ガラス越しに海底がのぞける様になっていた。船首の方の壁には、遣唐船の写真が飾られ、小さく説明文が添えられていた。映画「天平の甍」の写真であろう。

グラスボートは、東シナ海へ波風を切って突き進んだ。甲板に出ると波しぶきが小さな飛沫となつて顔にかかる。なぜか心地よい! 胸を張る思いで船首に立った。
夢と使命に燃え、先人たちは唐の都、長安めざして荒波を乗り越えて行ったのであろう。私も、その気分を味わうには十分なほど、船は小さく沖はうねりがあった。

海面は、あちこちで大きな弧を描きながら浮き沈みしている。見るだけで船酔いしそうだ!二本足で立っている足もとが垂直に上下する。板子一枚、まさに下は地獄だ!

 グラスボートは、坊浦沖合の網代浜へと向かった。
網代浜はこぢんまりとした海水浴場になっていた。
船上より間近に見える双剣石は、男性的リアス式海岸ならではの景観である。近衛信輔は「坊津八景」の中で、このあたりを、

 網代夕照 磯ぎわのくらきあじろの海面も夕日のあとに照らす篝火。

と詠っている。さらに湾を入り込んだ寺ケ崎の西南の小湾を亀カ浦といい、

 亀浦帰帆 亀浦や釣りせんさきに白波のうき立つとみて帰る舟人。

と詠っている。また坊岬灯台あたりで、

 御崎秋月 あら磯の岩間くぐりし秋の月影をみさきの波にひたして。
 田代落雁 行末は南の海のをち方や田代に下る雁のひとつら。

と詠っている。
網代浜沖でグラスボートは停泊した。エンジンが停まると、ガラス張りの船底からは、テーブルサンゴなどの色々なサンゴ礁やウニなどが海底に彩りを与えていた。
尋ねてみると水深は7~8㍍と言うことであり、密貿易時代は網代浜沖は抜荷が頻繁に行われていた事もうなずける。

 グラスボートは、再び引き返し泊の沖合の丸木浜へ向かった。丸木浜は丸木半島の付根を南北に大きくくり貫いた様な入江であり、昔、漂流船や貿易船が風雨をさけてイカリを下ろしていた所でもある。

また、島津九代忠国が、嘉吉附庸事件(嘉吉元年、1441年将軍足利義教の弟、大覚寺義昭が謀反を起こした折り島津忠国に追討が命じられ、忠国がこれを日向で討ち取った)の功により琉球を賜わり(これには異論がある)琉球を視察しようとして泊に滞在し、丸木浦に多数の軍船をこしらえ出航の日を待っていた所である。忠国は、その後病死するため計画は中止になったと言われている。

丸木浜は、国道より近い事もあり、多くの海水浴客が見渡せた。グラスボートは、沖合にしばらく停泊した。海底のサンゴ礁とともに海上には、ヒサゴ瀬や草島と呼ばれる岩礁が、東シナ海に向かって美しい景観を作っていた。一時間はすぐに過ぎていった。

 泊漁港を後にし堤防沿いを歩くと、道路より一段低い所に湧き水のコンコンと湧き出ている井戸があった。案内板には、まっどくんかわ(弘法の井戸)と記されている。昔は地元の人々の生活用水であり、この井戸は弘法大師(空海上人774年~835年)が西国行脚の途中、この地まできて、のどのかわきをいやすため浜に杖をさされたら水が湧き出てきた、と伝えられていた。

町並みをしばらく行くと川をはさんで道は大きく二股に分かれている、川の上流づたいの山手の道が清原、茅野方面(島津九代忠国が丸木浜から琉球に渡ろうとして坊津に来て行館を建てた所)への道であり。橋を渡り海岸沿いの道が、丸木浜、久志への道である。
この分かれ道あたりが泊の町の中心であり、「坊津十五夜歌」に歌われた泊の豪商小次郎屋敷があったと言われている所である。

この町を流れる川は泊川と呼ばれていると共に鍛冶屋川とも呼ばれている。
坊津が貿易港として栄えていた頃、造船も盛んに行われ造船技術も高かったことから、遠くはフィリピンからも造船の注文があったと言われ、坊の深浦と共に浜から取れる砂鉄を製鉄し、ここで造船に必要な金具等を作ったり、入港した船の修理を行っていたと言うところで、この名前で呼ばれるようになったと言うことである。

川を少しさかのぼった所には、当時使われていた湧き水(井川)があった。
川沿いの道をさらにさかのぼると海印寺があった場所があり、現在は浄土真宗の摂光寺になっているが、伊集院広済寺の末寺で臨済宗のお寺であり、島津九代忠国が一乗院で亡くなった時、その位牌を安置して大檀那としていた寺である。また川を渡った左手には岩に刻まれた磨崖文字があったが、文字はほとんど読みとれないほど風化していた。

 私は、再び海岸沿いの国道に引き返し丸木浜へと向かった。
泊より丸木浜・久志へ通づる道は、車岳が東シナ海に間近に迫り蛇行した崖づたいの道である。
大正六年、枕崎―笠沙線の二万四千二百㍍の県道(国道226号線)が完成するまでは馬道の旧道であり、工事に際しての泊―久志間は、機械力もなくすべて人力だけの難工事であったと言われている。
断崖絶壁なるが故に、景観も美しい。しばらく曲がりくねった道を登りつめると、泊浦と丸木浦を隔てるように小さく突きだした今代鼻の展望台に出た。
コンクリートで作られた高台の展望台からは、東南の方向に泊漁港、北西方向には丸木浜が見下ろせた。また、東シナ海に向かっての展望には、丸木半島の先端のヒサゴ瀬や草島が小さく岩礁を表し、うち寄せる波が白く砕けていた。
私の、坊津第三番目の目標である久志湾。それは丸木半島を越えた北方に位置しているはずである。

 

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2018年05月11日