★思い出の紀行(坊津)<13久志湾へ1

 風車村のある丸木半島を左手に見ながら車をしばらく走らせると、前方に大きな湾が開けてきた。
三国名勝図絵に記された久志湾は、
「西より東に入りたる海湾にて、内外の二港を分つ。内港の口は、北岸より宮崎鼻突き出し、南岸よりは小島二つ接連し、港口をふさぐ。港裏の北浜を今村浜といい、南岸を博多浦という。

又、内港の口よりさらに沖合いに大岩鼻左右より突き出し、やや相向い海口をふさぐ北岸にあるを立目崎といい、南岸にあるを網代という。立目崎の内を馬込浦と号す・・・
これを外港とする。二層の湾内、共に舟舶の安泊に便にして、実に天然の良港なり。往古は、海外の船来たりて交易をなす・・・・」と説明されている。

内湾は、坊浦湾と泊浦湾を二つあわせた位の大きさであり、内港の海岸沿いの道路も直線的で北へ向かって長い。
内港の南岸にある博多浦は、古来より中国、琉球などの貿易船が盛んに出入りし、非常ににぎやかであった港である。

博多とは、物が多く集まるところの意味であり、古く中国では交易商業の中心地を博多といい、昔は筑前の博多と薩摩坊津の博多は共に商業貿易の中心であった。

丸木半島を過ぎ国道を海岸に向かって下ると、人家を迂回し包み込むように道が走り久志漁港に至る。古い家並みは、海湾より小さな川づたいに山手へとのび小さな集落を形成している。この集落の入り口が博多浦であり、唐人町のあった所である。

私は、久志漁港の手前の道を博多浦へと入り込んだ。
博多浦は、古代から海外貿易の拠点であったが故に、多くの唐人が移り住んだ所である。道は石畳が敷かれ、石畳は琉球人の石工によって作られたもので唐針(日時計)が刻まれていたと言う。おしくも昭和二十六年のルース台風で破壊されてしまったが、当時の石畳があちこちに残されていた。

唐人たちは、徳川幕府の鎖国令によって海外貿易が長崎一港に限定されると、その居所を失い、新たなる土地を求めて移住して行った。その時、墓も一緒に掘り起こされたと言うことであり、その跡の祠には地元の人々によって墓が建てたと伝えられている。

唐人墓は、山手の小高い丘にあり、博多浦を静かに見下ろせる場所に立っていたが、唐人墓のあたりは荒れ果て、今は屋敷があったであろう石垣が残っているだけである。
幕府の鎖国令を、もろに受けた坊津。その一端を博多浦に見る思いがする。

 また、唐人町の入り口あたりは交易場の跡であり、運ばれた荷は一旦ここで降ろされ市が開かれ鹿児島や関西方面へ取引されていったと言われている。

さらに交易場の近くには、江篭潭と言われている入江があり、ここは船の避難場所であると共に造船所の跡とも言われ、海の干潮を利用しての船底などの修理、修繕をした場所でもあると言われている。

江篭潭の南の丘の日本人墓地には、交易場家の墓石があり、現在でも交易場を苗字とする家が残っていると言う。


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2018年05月12日