★思い出の紀行(坊津)<14久志湾へ2

 久志地区や秋目地区は、一乗院の影響を多く受けている坊・泊とは異なり、一向宗(隠れ念仏)が盛んに行われた地区でもある。
薩摩藩の公認する宗教は、一乗院の真言宗をはじめ天台宗、禅宗などの国家仏教、貴族仏教であり、学問的戒律主義的仏教であった。

島津中興の祖(日新公)以来、他藩とは異なり、一向宗(他力本願を説く親鸞の浄土真宗)を禁じた。日新公(島津忠良)は、一向宗を「悪魔の所為」であると言い。
孫の義弘(島津十七代)は「一向宗信者は、とかく同類徒党を結び、君父の命に従わず、忠孝の道にそむき人倫を破り秩序を乱す」とし、取り締まりは壮絶をきわめ、外城郷士の重要な任務の一つは「一向宗」の取り締まりでもあった。役所には「宗門改」があり領民には、何宗に所属しているか届けさせ「宗門手札」が渡されていた。

禁を犯せば連帯責任であり、罪の軽重に従って斬罪、切腹、遠島、知行没収、家名断絶、所払、科銀等に処された。
これに対し一向宗は、日々念仏を唱える自力作善の貴族よりも、自分の生活のためにやむを得ず殺生などの悪行を行わざる得ない下級武士や百姓こそが救済されるべきであると説き、封建領主への反抗勢力として育つて行った。

身分制度の厳しかった藩政時代、いつも社会の下積みにいて搾取され、現世に失望し不満を抱いていた人々にとつて、阿弥陀の慈悲にすがり、ただ念仏を唱えれば良いとする一向宗は、禁制の中でも深く浸透し「隠れ念仏」として広まって行った。
大方の人は、表向きは真言宗、天台宗、禅宗に所属しながらも「隠れ念仏」すなわち浄土真宗の門徒であったと言える。

明治初めの廃仏毀釈は、廃寺の歴史ではあったが、一向宗門徒にとっては封建制の崩壊をくぐり明治九年、信仰自由令による新たなる寺院建設への道でもあった。 

 久志における一向宗は、博多浦における淳心講、今村地区の二十八日講が伝えられており、広島地方の一向宗を世に言う「安芸門徒」と言うごとく、博多浦においても「真言堅固の博多浦」と呼ばれるほど根強く信仰されていた。
博多浦は、海外貿易の中心であったため内外人との交流も多く、一向宗は京都の本山と直接海上交通により結ばれていたと言われている。

博多浦は、藩御用船商として多くの家が苗字帯刀を許されており、堺の港のように一種の治外法権地域を形成しており、地元の役人では取り締まれないため、恰好の「隠れ念仏」の地であったと言われている。

唐人町の奥まった所にある淳厚寺は、廃仏毀釈で共に取り壊された真言宗一乗院の末寺の宝亀山阿弥陀寺安養院の跡地に建てられた浄土真宗の寺であり、小さな川に架けられた石橋や石畳は、堅固なる信仰びとの風格さえ感じさせる程、威厳に満ちたたたずまいである。又、今村の地区には広泉寺が建てられていた。


 坊津は、寺院、貿易もさることながら、同時に他の外郷と異なり医者の多くが住した町でもある。特に久志・博多浦においては、貿易によって薬種、香料などの入手が可能だつたことや、南薩地方そのものが薬草の自生する地域でもあつたことから、古くから代々漢方医の家系が多く博多浦近くには住んでいた。


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2018年05月13日