★思い出の紀行(坊津)<15久志湾へ3

 再び私は、博多浦より国道を内湾に沿って北上した。
途中、左手に砲台跡と言われてる場所には、幕末の頃大砲が据えられ外夷に備えられていたと言う。このあたりは平尾と言われる地区で、山手に向かっての人家は、昔、五十石どん(久木元家、小原家)と言われた家柄の人々の住まいがあったと言うことであった。

現在の久志の町は、平尾地区を少し北進した大久志の地区であり、海岸線の新道より山手側に平行に走る旧道には、地頭仮屋があり久志の中心であった。

内湾の北岸の今村浜は、久志川が湾にそそぐ河口である。河口に沿って宮崎鼻に通ずる途中に広泉寺はある。
広泉寺は、今村地区における浄土真宗の寺であり、その前身は、京都正光寺の直門徒として一向宗の二十八日講が行われていた所であり、この寺の本尊の阿弥陀如来の木像は、もと頴娃の開聞神社の別当寺(一乗院の末寺)瑞応院に安置されていたもので、明治二年の廃仏毀釈の直前に持ち出され、今村に運ばれ信者たちが石棺の中に埋めひそかに保存してきたもので、神仏自由令の後に掘り起こされ広泉寺に安置されたものである。

又、広泉寺付近の今村地区は、豪商の重屋敷のあった場所でもある。
享保の「唐物崩れ」により多くの豪商たちは没落して行ったが、なおも幕末まで続いた豪商の存在もあった。
享保の一斉取り締まりは、自由に密貿易を行ってきた豪商たちの新たなる編成換えであり、薩摩藩の琉球貿易専売体制へ移行するための大支配であった。薩摩藩の専売体制への移行は、一部の大船持ちとの必然的結託を生じさせ、一部の豪商たちは、藩の御用船を勤めるかたわら時には密貿易商として幕末まで繁栄するのである。

その代表的豪商たちは、指宿の浜崎太平次、高山波見の重、串良柏原の田辺、志布志の中山、加世田小松原の鮫島、阿久根の河南・丹宗、東郷の田代、そして坊では森吉兵衛であり、久志博多浦では重家、中村家、入来三家、関、林、田中、森の七家は苗字帯刀を許され、商人たちは、回船問屋を組織していた。

特に、重次兵衛は「久志じゃ重の字や、泊じゃ小次郎、坊の津ヤマキチ(森家の屋号)で名をあげた」と歌に歌われるほどであり、ある年には全国の長者番付に印されるほどであった。
次兵衛が晩年、科をのがれて大島名瀬に渡る時、五十数個の千両箱の半分を久志に残して行ったとも伝えられている。
又、中村家は、大阪中之島に回船問屋を置き、明治期まで大倉庫を持っていたと言われ、今の住友倉庫の前身である。
さらに久志今村の重家や中村家には、西南の役の前年の頃には西郷南州翁が数ヶ月も滞在しており、南州翁の書の類が数多くあったと言われ、明治十年の役の戦費の多くを負担したと伝えられている。
しかしながら、両家とも(坊津の豪商たちが多くそうである様に)明治十年の敗戦と共に没落への道を辿って行ったと言われている。

私は、広泉寺の裏手の丘に登り、久志の内湾を眺めながら、自然が作り出した天然の良港、そしてそこで織りなされた人々の歴史、そしてそれを眺めている私と言う存在も又同じ歴史の構成員の一瞬の瞬きであると想った。

私は、久志に時代と共に生きた人々の夢の跡を見た思いがした。この今村や塩屋地区は、太平洋戦争でB29の爆撃を受け、ほとんど九割が消失したと言われている。



<16久志湾から秋目へ□□□□□14久志湾へ2>


2018年05月14日