★思い出の紀行(坊津)<16久志湾から秋目へ

 私の最終目標は、秋目であった。
久志より約10㌔の山間の道である。
道路前方に今岳が見える頃、今岳の西方の裾野に久志湾の外湾を形成する立目崎が細長く海上にのび湾を作っている。馬込浦(末柏浦)である。今岳峠から見下ろす景色は絶景である。
今岳は三角錐状のとんがつた山であり、山頂には十二個の石を神体とする十二所権現が祀られ、古来より霊験あり航海の神として付近の海上を往来する人々は必ず参拝したと言われ、末柏と言う集落には鳥居口を姓とする部落があると言う。

又、この今岳峠あたりは、県下で初めてポンカンの栽培が行われた所でもある。
今岳峠を過ぎ、左手海上に沖秋目島(ビロー島)を見ながら平崎海岸を通り抜けると、いよいよ秋目である。

 秋目浦は、正面岬と呼ばれる岩山が北方より海上に突き出しておりその付け根に向かって南よりえぐり込む様に湾を形成するこぢんまりとした入江である。

久志湾に比べ、その小ささに驚くほどである。この小さき秋目浦に、奈良時代に漂着した鑑真。その鑑真の日本上陸の資料を展示した記念館が、国道沿いの丘に建っていた。
 日本の古代国家は、唐の制度を模範とし大化の改新が行われ、大宝律令を発布。都を唐の長安にならって平城京(奈良)に移し仏教による治国を理想とし、まさに都は、

「青丹よし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今さかりなり」

と詠われたほど大唐文化の咲き誇つた時代である。
しかしながら、外観整い魂入らずではないが、仏法の修行の基本である戒律を経ず、ただ苦しい賦役から免れるために仏門に入り、仏のことも知らず経典もろくに読めない怪しげな僧達が増えていた。朝廷も、たびたび取締規制を出すが手の着けられない状態に、正しい授戒の実行と戒律知識の普及の必要性を求めていた。
ついに聖武天皇は、栄叡と普照の二人の青年僧を唐に遣わし、日本の授戒の師となるべき律の高僧を迎えて来る様、命じた。
二人の若き僧は、重大なる日本の使命をおび、天平五年(733年)の遣唐使船に乗り込んで入唐し、各地を訪ね歩くこと九年、ようやく伝戒の師たる鑑真に出会うことになる。
鑑真は、中国揚州の生まれで諸宗の奥義を極めた当代随一の高僧であり、優れた徳を慕って多くの俊才が輩下に集まっており、講座を開くことで後進の指導に当たっていた。
鑑真を訪ねた二人の若き僧は、入唐の使命を切々とうったえた。
「仏法は、つとに日本に伝わりましたが、その法があっても、伝法の人がいない実状であります。むかし聖徳太子は、二百年後には仏教は日本に興隆すると予言しておられましたが、今こそ、その時になっています。願わくば、大和上が東遊して伝戒の師となり、真の聖教を指導する師表となってください」と頼みこんだ。
静かに聞き入っていた鑑真は、

「私は、こんな事を聞いている。わが天台宗の祖師である南岳恵思禅師は、亡くなられた後に、日本の王子(聖徳太子)に生まれ変わって伝法を興して衆生を救われたと。実に日本こそは仏法興隆の国だと思う。誰かこの中に日本に伝法に行くものはいないか」
と問われた。
しかし、誰一人答える者はいない。
やつとして祥彦と言う僧が進み出て言った。

「日本は、はなはだ遠く生命は存し難い。はてしない大海を渡るに百人に一人も至るなしと聞きます。人身は得難く中国には生れ難い。その上私どもの修行はまだ成就しておりません。だから誰も黙して答えられぬのであります。」
すると鑑真は即座に毅然として言った。

「これは法のためであるぞ。経に示されたように身命を惜しむべきではない。誰も行かぬなら私が行く。」
すると、びっくりした弟子たちも、誰も彼もが即座に同行を願い出た。

 鑑真一行は、早速、出発の準備に取りかかるが、高僧なるが故に引き留めようとする人々の密告などに会い挫折や大難を繰り返した。
ある時には、日本とは反対の方向の海南島に漂着し、言語に絶する苦難に遭い、ついに六十三歳の時には、失明するに至った。そして愛する弟子たちも死亡したり脱落していつた。
そして、六度目にして日本の土を踏むのは、第一回の渡日計画から実に十二年が経過していた。
天平勝宝五年(753年)十月十九日夜、ひそかに遣唐使船の中にかくまわれて揚州を出発。やがて六十七歳を迎えようという天平勝宝五年の年の暮、屋久島で十日間も風待ちして出航した船は、四方もわからぬほどの風波の中を進み十九日の昼時に山のような波間から山頂を見る。それから一日かかつた翌十二月二十日の昼に、やっと秋目浦に辿り着いたのである。
この鑑真の日本上陸を記念し、鑑真和上が亡くなって千二百年目にあたる昭和三十八年に、秋目浦の東シナ海を見下ろす高台に、

「鑑真大和上滄海遥来之地」の記念碑が建てられた。
そして添碑には、
「天平勝宝五年十二月二十日の午の刻、唐の鑑真大和上この地に上陸し、初めて日本の土を踏んだ。この国の文化は是より格段にその輝きを増したのである。」
と記されている。
さらに現在は、高台に鑑真記念館が建てられており、鑑真の偉大な功績とその生涯が説明展示されている。

 秋目上陸後、鑑真の足どりは、太宰府を経由し翌年の二月四日に奈良の都へと入った。そして日本律宗の祖として東大寺に初めて戒壇を設け、聖武上皇らの帰依を受け唐招提寺を建て、戒律の根本道場とした。大僧都となり大和上の号を受け、日本に多くの功績を残した。
鑑真は、天平宝字七年(763年)五月六日、結跏趺坐したままの姿で遷化した。行年七十六歳であったと言う。
現在、唐招提寺には、弟子の忍基が作ったとされる「鑑真和上座像」が安置され国宝とされている。
秋目では、鑑真の渡来を記念する行事として「鑑真大和上まつり」が、お盆の頃行われているが、今年は、第十八回目を迎え八月二十二日、日曜日に行われると言うことであった。

 当日の早朝五時、私は秋目に向かった。
小さい港での「まつり」とあれば、多くの人々でごった返すだろうと思ったからである。秋目には八時には着いたが、まつり開始の十時までには時間があった。
港には、日の丸と大漁旗を掲げた漁船が、朝日にきらめく入江に停舶し、まつり開始を待っている様であった。
今より千二百年以上も昔に起こった鑑真和上の上陸を、この小さな港の人々は、どのように受け止めたのであろうか。また、日本上陸に十二年もの歳月を費やし盲となった鑑真和上には、秋目の風景は心眼にどのように写ったであろうか。多くの弟子を失い、多くの同士が倒れた。終始一貫して到着したものは鑑真と弟子の思託それに普照の三人だけだったと言う。共に大命を託され入唐した栄叡は、五度目の出航計画で潮に流され海南島に漂着した時、海南島から本土へ渡り広州に向かう途中に、志なかばで没した。
今で言えば、ほんの数時間の距離にある中国、時間の概念が違い過ぎる。
この数時間の距離に、一命をかけた人々、真理を求めるにひたすらに生きた人々。それに比べ我々は、便利になり余った分の時間に、どれ程の成長をとげて来たのだろうか?どれ程の進化をして来たのだろうか?
東シナ海を眺めながら思いを巡らしていると、海上に小さく遣唐船が見え始めた。準備のための入港である。
泊浦から来たのであろう、私の乗船したグラスボートである。
浜には、上陸セレモニーのための準備がなされ、人々が集まって来ていた。
しばらくすると、再び遣唐船が漁港を離れ沖合まで出てゆく、いよいよ上陸セレモニーの始まりである。
花火が打ち上がった。

鑑真一行を乗せた遣唐船が、秋目浦に入港してくる。多くの人々が浜部から眺める中、沖に停舶する遣唐船にデンマ船が近づく、やがて鑑真はじめ同行の僧が三隻のデンマ船に乗り移り、秋目浜へと漕ぎ出す。
拍手と共に鑑真和上、日本への第一歩の再現である。
次々と、従った者達の上陸である。一行は十名であった。
この中に、鑑真の弟子の思託そして普照もいたのであろう。そして志なかばで没した若き僧栄叡、さらに十二年にわたる歳月で命を落とした多くの人々の魂も引き連れての秋目上陸であったことだろう。
そして、鑑真和上の心に去来したものは、みえぬ目にも涙する万感の思いであったことだろうと思った。
上陸を果たした一行は、海岸沿いを鑑真記念館へと行列を組み突き進んだ。

私は、行列の前方を歩き、一行を写真に撮り続けた。
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 私の旅も、終わりに近づいていた。
七月より、およそ二ヶ月あまり、坊津に四回ほど足を運んだ。
坊、泊、久志、そして秋目へと、夏の暑い中を歩いた。そして多くの事を知った。多くの景観に触れた。
私の遠い先祖たちの住んだ坊津は、千年以上も日本の歴史の舞台におどり出て、そしてその役目を、静かに終えた町であった。
久志博多浦に多く住し、ある時期には僧侶であり、漢方医であり、船鍛冶大工であり、唐通事であった。

 東シナ海に沈む夕照は、限りなく美しく、役目を終えた小さな町に対する自然からの贈り物のように感じられた。
また、私にとって坊津への旅は、自然や人々に対する優しさへの気付きの旅でもあった。
また、いつの日か訪れる時があるだろう。
いゃ!いつの日か、また来よう。と思いつつ夏の坊津に別れを告げた。


  参考文献

「坊津町郷土誌」  (上・下巻)    坊津町
「坊 津」      森 高木     春苑堂出版
「鹿児島県の歴史」  原口 泉      山川出版



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2018年05月15日