★思い出の紀行(笠沙)<17秋目から笠沙町へ

 秋目より笠沙町へ通づる国道226号線は、海岸まで山並みが押しせまり、ほとんど平地の少ない所である。
左手眼下には、沖秋目島(ビロー島)が近くの海上に大きく岩肌を見せ始めている。
笠沙町入りは、十月も終わりに近づき、風も幾分冷たさを含んでいた。
笠沙町は、東シナ海に向かって北西に細長く突き出した半島がほとんどを占め、その先端は、野間岬のある野間半島である。
野間池へ通ずる南西のリアス式海岸線は、急傾斜な地域が多く容易に海岸に近ずけない。
また、神話に由来する瓊瓊杵尊の上陸地のある海岸でもある。

 秋目より、しばらく車を走らせ展望の良い場所(後藤鼻)に出るとビロー島が目前にせまり、海岸までのスロープを利用した公園が作られていた。
現在は、立入禁止のロープが張られているが、この付近一帯の海岸は、笠沙漁協の漁業権が存在する海岸らしく、赤色で縁取られた警告の看板には、魚貝類、イセエビ、タコ、ウニ、アワビ、トコブシ等の採捕は、密漁となる旨が印されてあった。
あちこちに点在する小島が作り成す岩礁が育てているのであろうか、まさに海の産物の宝庫という感じがしてくる。
海岸は、この付近から北西に弧を描きながら黒瀬海岸へと続いている。
黒瀬海岸への道を、国道より左手に約500㍍ほど下って行くと、そこにはこぢんまりとした黒瀬漁港が開けていた。

この黒瀬海岸は、先頃(平成十一年十月三日)国内過去最高の覚せい剤密輸事件が発覚した場所であり、この事件は中国・台湾ルートの密輸組織によるもので、616キロを押収、末端価格壱千億円を超えると言われ、昨年、日本国内での一年間の押収量をはるかに上回る量であると報道されていた。
坊津のあちこちの海岸に立てられていた「密出入国、密貿易禁止」の看板を見たが、あながち過去の歴史のことだけではなく、現在でも起こりうることである事を実感する。

船舶や航海技術の発達により、現在は漂着船こそないだろうが、やはり黒潮洗うこの地域は、古来より海外に近い窓口なのであろう。
また、このあたりの海岸は、神渡海岸とも呼ばれており、港の奥まった所には、

「神代聖蹟瓊瓊杵尊御上陸之地」の碑が建てられている。

これは、日本書紀の日向神話の

「皇孫瓊瓊杵尊は、日向の高千穂峯に天降り、吾田の長屋の笠狭碕に到着し・・・」のくだりに由来すると言う事であった。

 黒瀬海岸を後にし、再び国道に戻るとすぐに黒瀬部落への道が右手に分かれている。
黒瀬部落は、昔より杜氏の里と言われている地区であり、多くの杜氏を生んだ。明治の終わりに焼酎造りに魅せられた三人の男たちが黒瀬で杜氏となり、その歴史が始まる。

日本でも焼酎造りの杜氏のいる村は、黒瀬と阿多ぐらいであると言われている。
国道を少し走った右手に、現在、焼酎造りの伝承展示館が、イベント広場や自然公園と共に作られている。大きな帆船を型どった遊び場の横には、

「冬知らぬ薩摩野菊の咲くところ 神代の蹟の磯におりたつ」の川田順の歌碑。

また、伝承展示館には、焼酎造りの工場が再現され見学できるようになっており、特にミニチュアと立体映像による仕込みから焼酎のできるまでのホロビジョンは、なかなか面白い。囲炉裏の前でダレヤメ(晩酌)する人形の語る独特の薩摩弁による解説は、何故か懐かしく感じられた。

道路をはさんだ反対側には、東シナ海に向かって傾斜を利用した展望ミュージアムが作られ、眼下には黒瀬漁港が望める。
「古来より中国と日本は、文化経済など深い関わりを持ち、ことに福建省とは江戸時代、琉球との貿易に密接な窓口として琉球館が置かれていたという歴史を持っております」と言う挨拶文に始まる「99日中現代美術交流展」が開かれていた。

中国側の展示は、福建省出身の芸術家で構成され、今や経済発展のめざましい東南の沿岸地区にある福建省は、芸術的にも伝統と現代、東洋と西洋の文化のぶっかり合いを背景として、アジア芸術における現代主義的絵画が盛んである、と紹介され、時代に対するメッセージを含んだ絵画は、ゆかりの地(笠沙町)で、そのエネルギーを増幅している様であつた。
このミュージアムは、平成十年四月にオープンしたと言うことであったが、テラスのテーブルに座り東シナ海を眺めながら芸術鑑賞に浸るのも、またイイ!

 ミュージアムを過ぎると海岸づたいの道が遠々と続く。
途中、国道右手に宮ノ山遺跡が山手に向かって登っている。ここは、皇孫の宮跡と言うことらしく由緒書きには、
「皇孫瓊瓊杵尊が、宮居を定むべき地を探し求めて吾田の長屋の笠沙の御前に来て塩土の翁から領有地の献上を受け、ここは韓国に向かい朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、といたく気に入られ、ここに宮居を定められた神代笠沙宮の古跡と伝えられている。
古事記、日本書紀によると瓊瓊杵尊は、ある時に笠沙の御前で麗しき美人に出会い、その名を尋ねると大山祗神の娘で神吾田津姫、またの名前を木花開耶姫といい、この姫を妃に迎える。やがて二人の間には、三人の皇子が誕生する。
火闌降命(隼人の始祖で海幸彦となる)、彦火々出見尊(天皇家の祖先で山幸彦となる)、火明命の三人であり、ここ宮ノ山は、皇孫発生の大ロマンの可能性を秘めた実に神聖で由緒ある地とされている」とする旨が記されている。
神話に語られている物語が事実かどうかは、さておいて、

 笠沙町における神代に関する石碑。

黒瀬海岸の「神代聖蹟瓊瓊杵尊御上陸之地」
宮ノ山の「神代聖蹟瓊瓊杵尊御駐蹕之地」
野間半島夕日ケ丘の「神代聖蹟笠狭之碕」
野間岳山頂の「神代聖蹟竹島」の四つの石碑は、

日華事変(日中戦争)が長期化し、日本が戦時体制(国家総動員体制)へと移行する中、昭和十五年十一月十日、紀元二千六百年記念式典(神武天皇が橿原の地に都を開いてから二千六百年目にあたるとされる年)が行われ、国民の戦意高揚「欲しがりません勝っまでは!」のスローガンのもと、皇国の「敬神崇祖」の念による記念事業として、翌年昭和十六年に建てられたものである。

宮ノ山遺跡を訪れる人も少ないのであろうか、狭いコンクリートの階段が作られてはいるが、あちこちで雑木が生い茂り、しばらく登ると遺跡と思われるドルメンと呼ばれる岩や石積みが点在していた、しかしながら頂上まで登るのは困難な様であった。



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2018年05月16日