★思い出の紀行(笠沙)<18野間池へ

野間池へ

 薩摩半島は、地形的に見ると牛の頭の格好をしており、山川町池田湖を口の部分とすれば、笠沙町は牛の耳の部分である。
その耳の先端のくびれた所が野間池である。また野間半島は、先端の野間岬を従え鳥のくちばし状に東シナ海をくわえ込み、弓なりの海岸線を作っている。
道路前方に、その景観を眺めながら車を走らせると国道の脇に、こぢんまりとした展望台がある。切り立った岩壁に砕ける白波は、はげしく岩を削り落とし男性的海岸を作っており、この展望台より見る野間半島は、ことのほか美しい。
この展望台で詠んだのであろうか、

 「神っ代の笠狭の碕にわが足を ひとたびとどめ心和ぎなむ」

の斉藤茂吉の歌碑が立っていた。

この付近は、海面より百㍍もあろうか、海岸へ降り立つ道はない。遠々と山の中腹を縫う様に道は続いている。姥と言う地区まで来ると数個の人家があったが、変わった名前である。おそらく娘媽信仰とのゆかりがあるのであろうか・・・・
山間の道が下りに入る頃、前方に野間池が見え始めた。
笠沙半島と野間半島がくっついたことから、海水を取り込むように池状をなし、北の一部が東シナ海に向かって狭い口を開いている。


私は、野間池と言う名称から池があるのだろうと思っていたが、池状を成した海湾であることを初めて知った。湾の奥まった中央は野間池漁港であり、静まり返った港には、多くの漁船が停舶し、まさに天然の良港を成していた。

 前方に見える湾口の〈みなと公園〉には、町営の温泉と博物館がオープンに向かって建築中であり、野間池漁港より見る景観は、まさに海上に浮かぶ近代建築の神殿を思わせる雰囲気である。

野間池漁港のトンボロをなす部分の反対側は、ウシロ浜漁港となっており、目前には大きな立神岩が立ちはだかり視界をさえぎっていた。
数人の釣り人が磯釣りを楽しんでいた、ここは定置網観光が体験できる場所にもなっていると言うことであった。

笠沙半島は、アジアモンスーン気候地帯にあるため、夏は南東を中心に南寄りの風が、冬は北西を中心に北寄りの季節風の吹く地帯であると言うことである。
特に、突風による海難事故は多く、最も注意を要するのは一月から二月頃の暖気突風であり、小春日和のベタ凪の状態から急変し西又は北西の突風は、瞬間風速四十㍍にも及ぶとされ、この突風を「西あがい」と呼び「冬の高凪,大名の居眠り」と言って恐れられていると言う。

また、薩摩半島は「台風銀座」とも言われる程、台風の通り道にあたっており、その被害も多く報告されている。特に昭和二十六年のルース台風の被害は甚大であり、大潮の満潮時と重なり潮位は十㍍を越える津波となり、ウシロ浜の立神岩を飲み込み市街地を一瞬の内に襲い十七名の人名を奪ったと記録に残されている。
ウシロ浜に立ち立神岩を見上げると、その津波の大きさに驚くばかりで、自然の持つ脅威を感じさせる。

 私は、海難事故に関する石碑が建っていると言う夕日が丘公園へ向かった。ウシロ浜の北西の丘、狭い坂道を上る。登り切ってすぐに左に折れ道の行き止まった所が夕日が丘公園である。公園と言うよりは狭い丘である。
名前からして夕日が綺麗なのであろう。野間池港の反対側に位置するこの丘からは、眼下にウシロ浜が見え南東の方角には黒瀬海岸のビロー島がうつすらと姿を現して大海原が展開していた。

丘の中央には、「神代聖蹟笠狭之碕」の石碑。
川田順の「いにしへも今もあらざり阿多の海の黒潮の上に釣するみれば」の歌碑。
そしてルース台風の海難事故にまつわる「噫乎消防の華」の碑が立っている。

資料によると、
「遭難船あり」の報告を受けた野間池消防団は、ただちに風雨の強まる中、野間池港より南西沖約8㌔の遭難船救助に向かう。救助船は「漁盛丸」「孟盛丸」二隻。現場に到着し直ちに救助活動を始めるが作業は困難をきわめる。
ようやく曳航に成功し「漁盛丸」を先頭に「孟盛丸」「遭難船」の順に帰途につくが、北上するルース台風にまともにぶつかり曳航ロープを切らし遭難する。その時の風速は、40㍍以上であったと言われている。視界ゼロの中を漂い「孟盛丸」は、座礁しながらも小池浜に着船。しかしながら「漁盛丸」はいっこうに帰港せず消息を絶った。

その時の瞬間最大風速は60㍍以上に達していたと言う。機関長の四十七歳を最高に最低十九歳、平均二十六歳の「漁盛丸乗組消防団員」二十名は、帰らぬ人となった。
その後、災害対策本部の懸命の捜索活動にも係わらず、一人の遺体も発見出来なかったと言われている。
この遭難事故は、笠沙町消防史上かってない殉職事故であったと言われ、
「噫乎消防の華」の碑は、「殉職同僚によって示された消防団の挺身する気概と友愛と信義を永久に自分のものとする」と言う主旨のもと、笠沙町消防団が中心になり、翌年二十七年、二十名の生命を沈めた東シナ海が一望できる夕日が丘に、慰霊顕彰碑として建てられたものである。

 美しい海岸は、ある時には狂ったごとく様変わりし襲ったのである。海に生きると言うことは、板子一枚まさに地獄と隣り合わせであり、胸の痛い思いにかられる。


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2018年05月17日