★思い出の紀行(笠沙)<19大当(おおとう)・片浦へ1

 野間池を後にし、大当・片浦へ。鼻山、高崎山(乗越の岡)が北方に突き出た海岸沿いの道である。野間池湾口の「みなと公園」を過ぎ、拡張され整備された直線道を走ると、道路脇に「シジリ山かくれ念仏跡」の石碑が立っている。シジリと呼ばれた山があったのであろうか、現在は平坦な場所にその石碑はあった。
また、このあたりの海上には、一年を通してイルカを見ることが出来ると言うことであり、たまにクジラも姿を現すと言う。

しばらく海上を眺めながら進むと、道は狭まり山並みは高くそびえ、平地の少ないこの地域は、「耕して天に至る」と言われるごとく、山の斜面を切り開き石積みで囲われた段々畑が山の中腹まで延びていた。

薩摩藩の全般がそうであるが、昔は、米だけを炊いたコメンメシを口にすることはほとんどなく、たいてい少しの米に麦やカライモ(薩摩芋)を混ぜて炊いていたカライモンメシ(薩摩芋の飯)やムギメシ(麦飯)を食し、子供達の学校へ持参する弁当は、茹でたカライモであった。
普段コメンメシの食べられなかった当時、行事や祝い事の日に出されるコメンメシは一番のご馳走であったと言われている。

 谷山地区を過ぎると道は、東シナ海に突き出た高崎山(乗越の岡)を回り込むように走っている。その先端は高崎鼻と呼ばれ、見晴らしのいい場所である。船舶の出入りを監視して唐物の抜荷等を取り締まったと言われる異国船遠見番所があった場所でもあり、今でも「番所」と言うバス停が残っている。

「番所」を過ぎ南下すると、いよいよ大当・片浦である。
東方海上に点在する神ノ島や立羽島が真近に見える頃、海岸線は大きく弧を描き、緩やかな入り江を作っていた。
この海岸は、珍しいサンゴ礁が見られると言うことであり、スキューバーのポイントとも言われ、現在は大当海水浴場になっている。

大当部落は、南西の野間岳山麓より流れ出る大当川が緩やかに東シナ海に注ぎ込む谷状をなした地域にあり、集落は河口を中心として西の山手に向かって切り開かれている。
人家は、狭い石畳の通路でつながり、丸石を積み上げた石垣は台風に備えての防護のためであろうか、張り巡らされ独特の景観を作っている。
国道より集落に入る入口には「100万個自然石積・石垣群の里大当」と刻まれた案内石があり、観光名所になっている。
大当は、野間岳の真下に位置し大当川の上流には野間岳が悠然と、その姿を現していた。
野間岳に通ずる道も開かれており、古来より野間岳信仰も盛んに行われていと言う。


 大当と片浦は隣り合わせである。
片浦湾! 私は、地図を広げるなり思っていた。変わった地形である。今までに余り見かけない入江である。ワニが口を開いたように、すべてをくわえ込む形をしている。
坊津から久志、秋目そして笠沙の一部の海岸を渡ってきて、直感的とも言えるヒラメキである。
薩摩における海外との交易の窓口であつたことは察しがついていた。
中世において、また江戸時代において、この港が担って来た役目とは、坊津に初めて足を踏み入れた時と同じ気持ちの高まりを感じていた。
片浦湾は、私の期待を裏切らなかった。

天保時代の「三国名勝図絵」に描かれている片浦は、
「野間岳の東麓に連なり、湾口は北に向かう。港の奥行き2キロメートル、湾口の横幅650㍍、水深32㍍、大船数百艘を繋ぐことができ、実に薩摩藩の諸港中屈指の良港である。
湾口の西岸に一小湾があって(現在の片浦漁港)舟船を停めるに都合が良い。その西岸には、人家が最も多い。通商の唐船が逆風にあったとき、この港に停泊することが往々にある。良港と言うばかりではない。港の入り口には、竹島(神ノ島)楯羽島(立羽島)がそそり立ち、湾岸には人家が断続し、港東には崎山が突き出し、まるで龍が浮かんでいるようである。その絶景なること、つぶさに述べることはとうてい不可能である。」と言う旨が記されている。


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2018年05月18日