★思い出の紀行(1999年7月)<03 坊津紀行・耳取峠


枕崎港を望むはるか東方海上には、薩摩富士で有名な開聞岳が、東シナ海に突き出す様に秀麗な姿をぼんやりと見せていた。古来より野間岳と共に南方方面より来る船人たちの目印になっていた山である。

 私は、再び来た道を引き返すと国道226号線を坊津へと車を走らせた。
栗野と言う地区を過ぎる頃には、蒸し暑さに、また私の高鳴る興奮がそうさせるのかジットリと汗ばんで来た。かって、この様な気分の高まる旅があったであろうか?
ぽつりぽつりと人家のある坂道を通り抜けると見晴らしのいい場所に出た。国道の脇に小さな花壇が作られ石で作られたベンチが、こぢんまりと狭い場所を陣取っていた。
コンクリートの擬木の矢印が防・泊方面を指し示している。その横には丸太で作られた表示板に地名の由来が記されていた。

地名の由来もいろいろ説があるらしい。
この地で罪人の耳を切り取ったと言う説、またこの峠に来た人々が眼下に広がる展望のすばらしさに見ほれ立ちつくしたことから見ほれが訛って見取りになったと言う説、

郷土誌によれば、寒風特に厳しい所を、よく「見取かぜ」などと言うことから、枕崎、知覧方面から峠に吹き上げる寒風で耳がちぎれそうに痛いということから、

この地名が出たのではないだろうか、とも記されている。
現在の道路は、明治の終わりに開通した新道で、旧道は北方に五百㍍登った所で、並木の老松がつづいていたと言う。

島津斉彬公が初巡視の時、休憩し展望を賞した所が「お茶屋場」と呼ばれていると言う。

 古来より多くの文化人が坊津を訪れた時、しばし足をとどめこの展望に見取れたのであろう明治の歌人、高崎正風は、

「玉敷の都あたりに移しなば世にふたつなきところならまし」と詠いここを絶賛している。

また梅崎春生の「幻化」の主人公五郎も、立ち止まり懐かしき風景に見入っている。

実際、東方には枕崎港、その遠方に薩摩富士の開聞岳、南には脚下に立神岩か小さく見える。

天気のいい日には、遠く硫黄島、黒島、竹島が望めると言うことであったが、霞みに隠れていた。

私は、しばらくベンチに腰を下ろし、古来より変わることのない山並みや東シナ海を眺めながら先人たちの思いを探っていた。
坊津は、もうすぐそこだ!


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2018年04月27日